ものごとを正しく捉える方法
2019.03.13
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わたしの仕事は、
経営のアドバイスをすることである。
よいアドバイスをするには
ものごとを正しく認識しなければならない。
したがって、
「わたしはいかにものごとを
ただしく認識できるか?」
はわたしの重要なテーマなのである。
10年ほど前に、事務所で
NLPという研修を受けたことがある。
NLPは、
コーチングの親玉みたいなもので
伝説的なコミュニケーションの達人の技を
プログラム化して教えてくれるものである。
(詳しくはYouTubeを見てください)
目的は…
瞬時に相手を説得してしまうことにある。
おそろしい心理操作術である。
先生にお越しいただいて
10回の研修を行なった。
研修嫌いの私にしてはめずらしく
なんとかやりとげられた。
もちろん勉強になった。
もっとも説得力が増したか
どうかはわからない。
そのNLPの研修の冒頭に
「事実はない、あるのは意見だけ」
という標語があった。
やけに脳裏に残った。
それ以後、
人やものごとを見る視点が変わった。
「だれでもそうやろ」とか
「事実やんかあ」とか
イージーな発言を聞くと
違和感を覚えるようになった。
そういえば、高校生のころ
黒澤明監督の『羅生門』
という映画を見たことがある。
カンヌ映画祭でグランプリを
取った名作である。
山賊と、レイプされた女、
それを見ていた杣売りが
裁きの場でそれぞれが
異なる証言をするという話だ。
まさに、
事実は人によってちがうのだった。
さて、
ものごとのとらえ方についての
哲学の分野を『認識論』という。
わたしが哲学の本を読む
目的のひとつである。
認識論といえばデカルトが重要である。
彼は、正しい認識をめざして
「われ思う、ゆえにわれあり」
という超有名なテーゼに行きついた。
ものごとの確からしさは
考えるこの私の明証性による
というわけである。
偉大な発見だった。
そこから彼は必然的に
物質と精神の二元論を唱えた。
詳細は省くが、これがその後
世界に大影響を与えた。
デカルトの関心は、
幾何学であったから
ものの世界を対象とした。
ものの世界は合理の世界、
だから合理論である。
では人間はどうなるのか?
彼はうまく説明できなかった。
その後、
デカルトの引き起こした
衝撃に対して
さまざまな人がさまざまに論を立てた。
スピノザは、この分裂を
本質は神で、ものや人間はその様態である
とした。
すごくチャーミングな説明だ。
また、ライプニッツは
世界をモナド(原子みたいなもの)
の集まりだとした。
モナド間の予定調和で
世界がなりたっていると。
イギリスでは、ジョン・ロックが出た。
彼は、精神は白紙みたいなもので
そこに知覚形式があり、
経験によって、
思考様式ができていくとした。
いわゆる経験論である。
これは行きつくところまで行きついて
ヒューム、バークリが出て
因果関係まで否定してしまった。
驚いたのはプロシアのカントである。
合理論と経験論の両方を
うまくくっつけて
理性について批判的に思考した。
世界に果てがあるのか?とか
神様はいるのか?とか
そんな雲をつかむような話は
あるとも、ないとも証明できるので
意味がないと却下して
経験論に一票を投じる一方で、
人には、生まれる前から
思考のパターンがあって
それによって思考しているとして
合理論の肩をもった。
そのなかで、カントは
物は物自体の世界であり
われわれは、物自体は
けっしてつかむことはできないとした。
これは卓見であった。
基本的に、わたしは
この立場に賛成している。
だからわたしは、
人間はけっして
世界を正しく理解することは
できない
と考えているのだ。
人は、
物質のなかにはいれないし、
360度の目ももっていないし、
人の心の中にも入れない。
科学だってけっして
ものの究極の説明はできない。
すべて仮説にすぎないのである。
だから、どんどん異説が出てくるのだ。
もういちどいうと
「事実はない、あるのは意見だけ」
となるわけである。
普通に日常生活をしている側面では
めんどくさすぎる話である。
しかし、皆さんも
ご自分の専門分野では
こだわりがおありだろう。
わたしも仕事柄
まじめに考えていくと
こうした理屈をこねまわす
ことになるわけである。
それでも、できるだけ真実に迫りたい。
そのために、自分なりに
ものや人に対する態度を
工夫、開発してきたつもりだ。
・人の話をすなおに傾聴する
・言葉に注意を向ける
・場の雰囲気、相手の様子をよく観察する
・質問を工夫する
・一人の話をうのみにしない
・全体視点から考える
・歴史分析をする
・推移、変化を視る
・細分化する
・方程式を立てる
・目的は何かを常に意識しておく
・現地、現物を見て判断する
などなどである。
私なりのポリシーである。
人間と物に対しては、それぞれ
説明のしかたが異なるというのは
素人でもなんとなく
そうだろうなあと感じる。
人間は
身体と心の融合物である。
身体は物質であり、
それは自然科学的に説明できる。
精神は物質でなく
それにはちがうアプローチ法が必要だ。
(ここの境界はあいまいだが)
つまり、ものは単純に
因果法則で分析できるが
人間というやつは複雑で、
そう簡単にはいかない。
ところが、人間を理解する
その方法がしかとはわからない。
そこで理論を探していた。
なんとなく直観的に
これかなと思い、
前から気になっていたのが
『現象学』とよばれる方法である。
現象学の代表的哲学者は、
エドムント・フッサール
という人である。
ところが、この人の書いたもの、
ダイヤモンドみたいに固い、
超難解なのである。
まったく歯が立たないので
窮余の一策、
まず入門書を読んでみた。
そのうえで
読んでみようと開いたのが
『ヨーロッパ諸学の危機…』である。
(なんともいえず、複雑、
むずかしそうなご尊顔である)
この本は
フッサール晩年の講義の草稿である。
読んでみて思ったのは
フッサールにしては、めずらしく、
難解さがまだまし。
私にでも理解できるくらいである。
ユダヤ人である彼は、
晩年、ナチスの弾圧の許
ほとんど活躍の場を奪われた。
そんな折、彼は講演の機会を与えられ、
ヨーロッパの思想の危機を
ガリレイの自然科学の数学化と
(なんでも算数で説明できる!)
そのインパクトに基づけて訴えた。
自然が算数で説明可能なら
人間の心もそうなのか?
…これが大間違いだと彼はいう。
そうであるならば、
自然科学に代わる
人間心理へのアプローチ法が必要だ。
それが現象学である。
ところで
一般的経験の世界での
普遍的抽象化のねらいは、
世界と事象の関係を
説明できるようになり、
それにより
予測と利用ができることである。
そうすると、
生きる上で有意義だからだ。
さて、現象学の方法論は
1 判断停止(エポケーという)
↓
2 現象学的還元
↓
3 現象学的省察
という手順を取る。
抽象的で、とっつきにくい。
これが難解の元である。
わたしなりに、キーワードや
本の説明とそのまとめで
内容を追ってみる。
1 判断停止
まずものごとを
判断しないのだ。
即座に判断などということは
ご法度もいいところである。
わたし
↓(中止・還元)
【人 →(知覚=意識)→ こと・もの】
これによって
常識に影響されない基盤をつくるのだ。
そして、世界を素朴に眺め
あれこれ考えつづける。
なにしろ終わりはないのである。
2 現象学的還元
その人の考え方や話を妥当させない。
…うのみにしない、放っておく。
これにより、
人々の純粋な作用生活、
狭義の意識生活を手にする。
そして、わたしは透明な
志向する主観となる、つまり、
素直に意識しているわたしとなるのだ。
3 現象学的省察
そして、頭の中で
意味を形成していく。
考え方の切り口は
・より近く・より遠く
・過去から・未来から、
・外側を・内側を
・他の人はどう思っているか、
・非連続と連続
などである。
そして、
その姿勢は
➀ のめりこむ
➁ あくまで追求
➂ 見方をブラッシュアップし続ける
である。
そうなのである。
つねに、探求に、真摯で、
素直で、しつこいのである。
決し終わりはないのである。
きびしい思考態度である。
これはよくわかる。
考えつづけなければならないのである。
できたあ、終わり!ではないのだ。
できても、発酵させておき、
また、取りだして考え直す。
何回も、何回も・・・いつまでも。
だから、いつも進化形なのである。
なにせ、人間はけっして
真理には到達できないからだ。
「ひとたび判断中止という
態度の転換によって、
純粋に主観的なものを志向性として、
その固有の自己完結的な
純粋な連関においてとらえ、
さらにそれを
存在意味を形成する機能として
認識するまでになるならば、
理論的興味が
さらに油然と湧いてきて、
われわれは一歩踏み出すごとに、
そこに生じてくる
見通しもつかないほどに
充実した研究課題と、
またそこでなされるにちがいない
重要な発見に直面して、
ますます驚嘆の念を
高めずにはいられない。」
すごく共感できるし、
気分が高揚してくる文章である。
ところで、
人間について考える場合
意識の構造を探ることは不可欠である、
人間にとって、
世界は自分の存在が前提である。
なぜなら、自分がいないときには
世界を考えても意味がないからだ。
(本当は、世界が在って
その中に私がいるのだが)
「認識の順序からすると、
われわれ人間にとっては、
われわれ自身の存在の方が
世界の存在に先行する
(だからといって、
存在の現実性の順序から言っても
そうだということにはならない)。」
それゆえ、人間にとって思考とは、
主観でなければならない。
よく考えてみると、
フッサールが言うように
人間の思考には、
つねに志向性がある。
つまり、いつも、
何かのについて考えているからだ。
…サーチライトをあてている
ようなものだ。
人間の心理、意識、行動の
あり方さらに考えると、
そこには、
内的経験と外的体験がある
ことがわかる。
これを基にして、
人間心理の働きを図式化すると
次の通りとなる。
□まず外的な体験がある
➀感覚→統御→運動→主に手
↓(外的体験)
_他の自我・物質―内在 もの
➁感覚→感官→見る→目
↓(外的体験)
_もの
□そのあとの内的な思考の流れ
感覚
↓(内的体験)
認識→分類→概念化→
関係思慮(因果・理由・推測・移入)→
ものごと理解→感情形成→記憶→
想起・思い出し→態度形成→人柄となる→
見直し・自己客観化・反省(対自・対他)
人間の意識と思考活動を
ここまで整理できただけでも
むっちゃすっきりした。
「わたしが現実にそれとして
固有の本質において経験するのは、
わたしの統御しつつある
自我存在だけである。」
意識の流れとはフッサールがいうように
次のようなものではないか。
「流れゆく意識生活を、
特になによりもまず
一つづきの自我の作用が、
しかも受動的な諸状態を基盤として
現われてくるときの時間的経過。
一個の人間の心理的体験の現在野だけが、
内的知覚として
必当然的明証において知覚される
(他人の心理体験は自己移入という間接的な
経験のしかたによってのみ与えられる)。」
以上が、
フッサールの考え方についての
わたしの理解である。
私が持っていた考えを、
現象学的な考え方にくっつけて
おおむね納得のいく、
もつべき考え方と
道具の使い方が判った気がした。
さて、本の最後に
フッサールのむすびの
ことばがあった。
これが秀抜であり、
生き方を言葉にしてもらい
大いに整理ができ、
また勇気を与えてくれた。
せっかくだから、
多少長いが
ご紹介しておこうと思う。
理性の自己実現としての哲学とは、
「哲学者がみずからに課した課題、
彼が哲学者としての
みずからの生の目標として課した課題は、
世界についての普遍学、
世界つまり即自的世界についての
普遍的で究極的な知、
真理それ自体の総体を実現することである。」
とした上で、
「理性とは
人格的な活動と習慣のなかで生きている
存在者としての人間の特性である。
この生活は
人格的なものとしてたえず
発展を目指す志向性のうちでの
たえざる生成である。
この生活において生成するものは
人格そのものである。
その存在はつねに生成であり、
このことは、個人的、人格的存在と
共同体的、人格的存在との
相関関係によって、
人間にも統一をもった人類にも、
いずれにも当てはまる。
人間的、人格的生活は、
自己省察と自己責任の
諸段階を経過する。
すなわち、
この形式の個別化された
偶然的なはたらきから出発して、
普遍的な自己省察と
自己責任の段階まで、また、自律の理念、
つまりその人格的生活の全体を
普遍的な自己責任にもとづく
生活の総合的統一にまで形成し、
それと相関的に、おのれ自身をも
真の自我、自由な自律的自我に
形成せんとする意志的決断の理念を
意識的に把握するにいたるまでの
諸段階を経過するものである。
いま述べた真の自我とは、
おのれが生まれもった理性、
つまるおのれ自身に忠実たらんとする
努力、理性‐自我としてのおのれと
同一にとどまらんとする努力を
現実化しようとする自我なのであるが、
しかし、自我は
それを個人的人格と共同体との
不可分の相関関係において
実現しようとするのである。
それというのも、
個人的人格と共同体とは
あらゆる関心において
直接間接に内的に結びついている
― 一致および相克という
かたちで結びついている―
からであり、
また、個人的人格の理性は、
共同体的人格の理性としてのみ、
ますます完全に実現されることになるし、
またその逆でもある、
という必然性が
そこには存するからである。」
「こうしてみると、
哲学とは徹頭徹尾、
理性主義以外のなにものでもない
ことになるが、
・・・それはたえざる自己啓発の
運動のうちにある
理性そのものなのである。」
「人類は
理性的であろうとする意志することに
よってのみ理性的たりうるということ、
そしてそれは、
理性へ向かう生活と努力が
果てしのないものだということを
意味するということ、
理性とはまさしく、
人間としての人間が
その内奥からして意志するもの、
それだけが人間の心を鎮め、
『至福』にいたらしめるものだということ、
理性には、『理論的』とか
『実践的』とか『審美的』など、
その他なんであれ
そうした区別はないということ、
人間存在とは、
目的論的存在であり
当為的存在なのであって、
すべての自我的行為や意図のうちに
この目的論が支配しているということ、
人類は、自己理解によって
すべてのもののうちに
必当為的な目的を
認めうるものだということ、
究極的な自己理解によるこの認識は、
アプリオリな諸原理の従う自己理解、
つまり哲学というかたちでの
自己理解以外のいかなる形態も
とることはないということ
―こういったことを
理解しているということである。」
もしも、1936年に、
私が、ウィーンにいて、
ドイツ語を母語とし
コンサルタントをしていて
フッサールのこの話を聞いたら、
きっとこう感じたのだろう。
…83年の時空を超えて
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安いではないか。
経営コンサルティングと
会計事務所の融合
組織デザイン研究所&
御堂筋税理士法人
小笠原でした。