人はなぜ記録をつけるのだろうか?
2024.05.26
プライベートなお話
過日、ある会社の幹部諸氏の研修をしていた。そこで日報の話になった。私の話の趣旨は、部下のサポートをするのに日報をつけてもらうのは必須だということであった。そうしたら、ある参加者が「僕は学生のときからずっと日誌をつけています」という。私が「へーっ、すごい、日誌をつけていたらどんないいことがあるのですか?」と尋ねたら、その男は「So that I can count the number of women whom I have made love affairs」とのたまわった(多少下品な話なので外国語で記しておきます)。! ? それ、ドン・ジョヴァンニ(稀代の色事師)といっしょじゃないか! なんともとぼけたやつだ。
そこで考えた。私はめんどくさがりでこどもの時から、夏休みの宿題や新入社員のときの報告以外日記などつけたことがないが、しかし27歳の時から毎日時間は記録している。そういえば私も毎年その記録を集計して、時間の使い方をふり返っているなあと。
さらにひるがえって、人はなぜこうした記録をつけるのだろうかとふと思った。Log=日誌、Record=記録、Diary=日記と種類はさまざまあろうが、それらはどれも日々のできごとの記録である。記録をするために記録するわけではないから、そこにはなんらかの理由や目的があるはずだ。
今NHKの大河ドラマで『光る君へ』が放送されている。舞台は平安時代のハイライト、藤原道長の時代である。道長と言えば栄華を誇り王朝時代の絶頂を究めた人だが、彼も『御堂関白記』を記している。おもしろくもなんともない記録なので買って以来ページをめくったこともない。ドラマでは道長とただならぬ関係があったと創作されている紫式部も『式部日記』を遺しているが、こちらの方は才気煥発で滅法おもしろい。
この二つの日記のおもしろさのちがいは、一方が男のもので、他方が女のものだからだ。一方が公的生活の記録で、他方が心に思ったことをしたためたものだからだ。このように古来、人は実利的な目的のために、また個人的なもの思いの吐露のために記録を残してきた。
私は、前述したように文学的な素質などかけらもないので、もの思いで日記をつけるなどといったことは、恋煩いで血迷ったほんのわずかの間以外したことはない。
今も連綿として記録を残しているのは、仕事の時間の記録、読書の記録、オペラを見た記録、医療費の記録などである。ではこれらはなんのために記録しているのだろうか?
時間の記録は宮使いの頃からボスに命じられてしてきたものだ。これは今では私の仕事のPDCAの中核となっていて、私の仕事の生産性の基になっているのは実にこの時間の記録である。ドラッカーも『経営者の条件』の中で、ビジネスマンはなによりも自分の時間が何に使われているかを知らなければならないと述べておられる。この話はとても重要だが今日は触れないでおく。
読書の記録もさて20年近く残している。別にそこから何かを分析したりするわけではない。意義があるとすれば読書のペースメーカーになるということと、いいなと思った本はコメントをつけて推薦図書リストに載せている程度である。
オペラの記録はさらに意義は薄い。ただ備忘のためにしていて何かに利用することはない。だから一年分気の向いたときにまとめて思い出しつつ記録をつけるくらいずぼらなこともやる。
医療費はもちろん確定申告のときのために記録している。一年間まとめてやるとめんどうだから都度忘れずに記録しているのである。
こうしてみると、私の場合には記録は実利的な色彩が強い。だから記録をつけたらそれを集計したり、分析したり、そこからさらなる生産性や効果性をめざすこととなる。
最近、私がけっこう影響を受けている『一般意味論』の著者、ノーム・チョムスキー(他の人の記憶まちがいかもしれない)は、生物を植物と動物と人間に分けてそのそれぞれの特質を定義しているが、人間のそれを『Time Binding』としている。Time Bindingとは、私の理解では時を越えて情報を記録蓄積していくということだ。それゆえ人間は、種族の個々の経験や洞察や知識を後世に残し集積しそれゆえ進化させることができるという。なるほどなあと思ったしだいである。
私もささやかな自分のけっこう長くなった人生で気づいたことを有意義に後輩たちに残していきたいと感じている昨今である。