従兄の死
2024.07.06
プライベートなお話
従兄の『Yちゃん』が死んだ。
ふた月ほど前に、従姉の『Kちゃん姉ちゃん』から電話が来た。Yちゃんが癌でだいぶ悪いらしいとのことだった。Yちゃんと仲良くしてくださっているお知り合いの方から連絡があったという。
Yちゃんは私の2学年上の従兄で、小さな頃は私の両親が商売をしていた関係上、奈良のA池というところで暮らしていたYちゃんの家に週末よく泊まりにいっていた。そこは祖父の家であり生きやすかったのだ。
長じてはほとんど会う機会はなく、たまに親戚の法事があると顔を合わせる程度だった。数年前私の父の生誕100年の会を別の従姉の飲み屋でした折には来てくれて、昔の話に花が咲いた。
そしてさらに1ヶ月余り前また連絡が来て、相当悪いので見に行ってもらった方がよいとのことであった。
いとこ連中の中で比較的行き来していて動けるのは私だけだから、そのお知り合いに電話をしてみた。その方は従兄が飲みに行っていた酒屋さんのご主人で、従兄のことを気にかけてくださってあれこれとお世話をしてくださっているようだった。
従兄は自宅で一人住まいであったが身体もだいぶ衰えて自力での生活は相当困難だと判断されて、ケアマネジャーをつけてくださったとのこと。私は早速にそのケアマネさんの連絡先をお聞きして電話をしてみた。とても親切な方であれこれと状況を教えてくださった。
そしてほどなく状態がさらに悪化して病院に入院させたと連絡がきた。従兄は入院はしたくないとかねて言っていたようで、それは経済的な状況によるのだろうとその方は語っていたが、そうもいかなくなったようであった。
私はさっそくに病院に行った。緩和病棟にある病室に入るとYちゃんは意識ははっきりとしていたが、語るのはしんどそうであった。私に連絡するのも、彼は忙しいからと遠慮していたという。
Yちゃんには父がいなかった。こどもの私にはよくわからないことであったが。ただ祖父が分限者だったから同居していた孫のYちゃんは、小学校から隣駅のT山小学校に通っていて、今から70年近く前の昭和30年代前半にバイオリンを習っていた。
その後祖父が亡くなり後ろ盾がなくなると、おばちゃんが女手ひとつで彼を養っていたから、必然的に質素な生活にならざるを得なかった。農業高校を出て運送会社に入りトラックを運転していた。その後N交通に入りなおし定年までバスの運転手をしていた。意外に気分の落ち着いた性格であったのだろう。
私はYちゃんに「心配せんとき」と安らわせて、何かすることはないかと問うた。すると部屋のカギと車のカギを渡し、車を処分してくれという。
入院の保証人などの手続きをして、同行してくれた兄といっしょにさっそくに病院の近くの自宅とその前の駐車場に行った。自宅に行くのは初めてであった。状況がわかったので、さっそくに駐車場のオーナーの方や車のディーラーに連絡をして車の処分と駐車場の解約をお願いした。
そうこうしていると、ある日病院からYちゃんが危篤だとの連絡が入った。盆が目安と聞いていたのであまりの速さに驚いた。その日は欠かせない仕事があったので病院に行けずにいるとその夜に亡くなったと知らせがあった。
遺体の引き取りや葬儀の手配は兄がしてくれた。翌日、時間をやりくりして葬儀屋さんに行った。プレハブ小屋のようにおそろしく粗末な葬儀屋の部屋中で死に顔に面会した。笑っていてそうな安らかな死に顔だった。
親切な葬儀屋さんと兄とそさくさとこの後のことを相談した。葬儀も仕事がはずせず兄には申し訳ないが万端任せて葬儀屋を出た。
お葬式には、連れ子の方や会社の方々もお越しいただいたようであった。
Yちゃんは終生独身であったが、あるときある女性と知り合い事実上結婚生活を送っていたらしい。その女性には連れ子たちがいたという。私はYちゃんのお母さんであるおばちゃんに多少の不義理を感じていたこともあり、今回のことはきっちりして差し上げたいとの気持ちが強い。
そして昨日、紹介してもらった司法書士さんの事務所に伺って後始末についてあれこれ相談をさせてもらった。結論は私たちも相続人ではなくあれこれとすることには限りがあり、またこうした孤独死では正規の手続きを進めることはおそろしく煩雑で時間がかかり、したがって労力も半端でないということが分かった。
ただ遺品の整理と借りているマンションの引き渡しはきちんとしておかねばならず、その足でマンションに向かった。たまたま隣家でいらっしゃる大家さんにお会いできたので事情を説明した。ご夫妻は彼の死を存じなかったようで驚きは隠せないようだった。
総じて長くそこに住んでいた彼はお金にもきっちりしていたようで、皆さんそれはていねいに対応してくださった。私もくれぐれも失礼のないようにしようと心がけた。
近く遺品整理屋さんが入るので、彼の部屋の寝室に入ったらささやかな仏壇の代わりの台の上に位牌や骨壺があった。そして箪笥の上にたくさんの写真が飾られていた。それは私がついぞ見たことのない彼と『家族』とのすてきな写真であった。幼子を抱いてうれしそうなYちゃんの写真を見て、「ああYちゃんにもこのような家族があり、時間があったのだなあ」となにかほっとしたような気持ちがした。
Yちゃんの人生がどのようなものであったか私には断片以外に知る由もない。私が誠心誠意Yちゃんのことをして差し上げられたかと問われたらとてもそのようなものではない。ただ少し気が済んだ思いではある。
最近、親しい友人や知己、そしてこのような親戚の死が相次ぎ、多少当事者としてそれを経験することが複数回あり、死について親しく思いを感じることが増えてきた。齢70を超えこのようなことが次々と起こるのだろう。その果ては自分の番である。サルトルは人間は永遠の死刑囚であると言ったが、けだし名言である。ただこれらの人たちの死にゆく様子を身近で見ていると、名画『汚れなき悪戯』のマルセリーノが静かに神に召された如く、眠るように臨終を迎えることができるのだろうなあと少しほっとしている。