御堂筋税理士法人創業者ブログ

わたしの生家は

大阪の上六(うえろく)

というところで

小さなすし屋を営んでおりました。

私が生まれたのは

昭和27年でして

お店を始めたのは

おそらく昭和25年ごろ

なのではないでしょうか?

母は子連れの再婚で

戦後、自宅のあった

奈良のあやめ池というところで

となり同士だった

父と仲良くなり

いっしょになったと

聞いております。

そして、なにかをして

食べていかなければならない

というわけで

祖父と伯父がしていた

すし屋をやりはじめた

というわけです。

父はそのようなこととは

無縁な人でしたから

母がイニシアチブをとって

商売をし始めた

のではないかと思います。

祖父は大正のはじめに

上六ですし屋をはじめて

たいそう成功しておりました。

母と父は

いろいろと支援を受けて

すし屋をし始めたのでは

ないでしょうか。

というのは、

お店があった場所は

実家の一軒おいてとなり

だったからです。

したがって

私は商売家の

雰囲気の中で育ちました。

お店は年中無休で

朝から夜中までありますし、

保育所のない時代です。

私が「ややこ」のころには

たぶん、親戚にあずけられたり

店の上が自宅でしたから

寝かされていたのでしょう。

したがって

ほとんど母や父と

休日に遊びにいったとか

家族のだんらんを過ごしたといった

記憶がありません。

そういうことを

思い出そうとしたとき

いつも出てくる心の中の風景は

母に連れて行ってもらった

玉手山遊園地と大和川で遊んだ

五月のある日の想い出だけです。

でも、それはとても

甘酸っぱく、胸が少しいたくなる

たいせつな想い出です。

家族での親密な会話というものも

したがってあまり経験がなく

その後の人生においても

さまざまな面で

差しさわりを感じているくらいです。

私が小学校四年生のときに

父が不慮の事故で早逝しました。

幸い、商売をしており

また母方の親戚が

とても近くたくさんいましたから

暮らしが傾くことはありませんでした。

それからわたしが

子供の目で見つづけたものは

母の奮闘ぶりでした。

多くの従業員が出はいりし

さまざまなできごとがあり

職人ではない母親は

経営者としてマネジメント

しておりました。

私は自分でいうのも何ですが

ガラスのような心も

一面あわせもっておりましたから

そうした母と従業員の関係を

見ながら

ずいぶんいやな思いを

感じ続けておりました。

わたし自身

小学生のころは

善悪のけじめのつきにくい

困った少年で

回りから困った子供だなあと

思われていたかもしれません。

実際、私が

懺悔しなければならないことも

いろいろと思い当りますし

また、友人や恩師などから

そうしたフィードバックも受けます。

(今は笑ってすませられますが)

母はとても社交的な人で

ある意味気はしも働くのでしょう。

また気位も多少高く

また、割合

面倒見もよかったように思います。

さらに、正義感も強く

公正な人でもあったように思います。

お客さんは

ホワイトカラーの方々や

(NHKのお客さんがとても多かった)

中小企業の社長

学校の先生やお役人さんが多く

多少、客層が高かったように

思います。

そういうお客さんには

母もそれなりに

評価されていたのではないでしょうか。

ただし

家族の親密さを醸し出す

家族の情愛を

すなおに表現するような

人柄ではありませんでした。

それは育った環境で

そうしたものに

恵まれていなかったから

かもしれません。

そういう体験と気質を

主に母親から受けとって

わたしという人間は

かたち作られています。

ときどきお話することがありますが

私が今のような仕事についた力動を

自分なりに、潜在的心理面から

考えますと

母親の商売ぶりを

側面から見つめ続けながら

その成功を代理したい

わたしだったらこうするという

意見を具現化し実現したい

ということだったのかもしれません。

わたし自身

かなり不作のぶどうといった

側面もありますが

さまざまなよき人々に出会って

がまんして良き面を引き出してもらい

えぐみを殺していただいたおかげで

なんとか破滅に陥らず

人生を展開してまいることが

できました。

よき醸造家に出会ったおかげです。

負けず嫌い、気位の高さ、

小心者、公正であれ

といった要素が

わたしというぶどうが

元々もっていたり、

母から影響を受けたりしたもの

が混成された成分です。

(それは良き面もありますが

鼻もちならない面が強く

また人生を切り開いていくに

不可欠な強いマインドに

欠けているところは

わたしの限界とチャレンジです。)

それらの原因帰属の分別は

それ以上は不可能ですし

それはよろしくない。

わたしがしっかりと

自己責任で受けとめて

引き受けて

歩んでいくものだと

思っています。

それよりも

ひと様に劣らぬ頭と

学校に行かせてもらったことが

なによりの母と父から

贈られたものだと思います。

感謝の極みです。

齢、還暦をすぎて

なにをいまさら

青臭いことをいっているのかと

思われる方もいらっしゃると

存じますが、

自分のアンカーを

しっかりと定めて

これから最終の航路に向けて

歩んでいきたいと思います。

御堂筋コンサルティンググループ

経営コンサルティングと会計事務所の融合

組織デザイン研究所&御堂筋税理士法人

税理士コンサルタント 小笠原 でした。


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