肥後橋駅のこと
2022.09.06
プライベートなお話
僕は今、中之島に住んでいる。最寄りの地下鉄の駅は肥後橋駅だ。この肥後橋の駅には多少の思い出がある。それは浪人時代のことだった。僕は高校3年のとき、早々に現役で大学に行くことをあきらめた。僕にはそういう気の弱いところがある。敢然と挑戦するということが苦手なのだ。だからだめだと思ったらすぐに努力を放棄してしまうのだ。逆に、何かを絶対にするのだと決意すると、必要以上の努力をする。悪い面と良い面の両方を持ち合わせているようだ。ということで僕は予定調和的に浪人生活に入ってしまった。
余談だが、さっぱり勉強もせずに臨んだ現役での大学入試だったが、志望する大学の入試の点数が後日高校に通知された。そのときは僕はすでに予備校に通っていたのだが。高校3年の担任だった松原先生が電話をくれて、僕は自分の点数を聞かされた。さほど興味もなかったが、聞いてみると、点数は合格最低点を47点下回る287点であった。僕は意外な高得点に少し驚いた。とともに少し後悔した。というのは、もしまともに勉強していたらおそらく合格していたように思われたからだった。こういう性格的な弱さに起因する消極さは、たぶんに僕の人生に負の影響を与えている。
それはさておき、僕が通ったのは、YMCA土佐堀予備校という予備校だった。その最寄り駅が肥後橋駅だったのだ。当時、僕の実家は上六で、最寄りの地下鉄駅は谷町九丁目駅だった。その数年前に千日前線が部分開通していたので、僕は、自宅から予備校まで地下鉄を乗り継いて通った。なにせ小学校から高校までずっと近くの学校に歩いて通っていたので、電車通学は少しうれしかった。さてYMCA予備校は当時は大阪で最も定評のある予備校だったが、その後、東京や名古屋の予備校が大阪を蚕食して、YMCA予備校は廃校に追い込まれて、今は存在していない。
予備校に入ったら、4月1日からは勉強に専心しようと思っていたから、われながらよく勉強をした。勉強をしたら成績はよくなるのは当たり前で、生意気な言を弄すると、僕の成績はうなぎのぼりで上がり、志望大学の合格に必要な点数を大きく上回る点数が取れるようになった。あたかも走り高跳びのバーを30センチも超えて飛ぶような感じとなった。夏を過ぎて秋になると、必要な勉強は終わり、数学に多少の不安を感じるものの、それも何とかかっこうのつく点数を取れるようになった。僕は理解力は乏しいが、今のぼけ老人ぶりからは想像もつかないほど記憶力には自信があった。生物や地理、世界史などただ覚えれば事足りる科目では大量得点をゲットできるようになっていた。
そんなわけで、予備校に通う必要性も感じなくなり、僕はやがて自宅でひたすら勉強するようになった。おそらく三度の食事時以外は、朝から晩まで勉強した。まあ1日8時間から10時間程度は勉強した。そのころはほとんどテレビも見ず、ただ週一度、NHKの『けんちとすみれ』というドラマだけを楽しみに見ていた。年も明けて、試験日が近づいたころは、当時『赤本』と呼ばれていた志望大学の入試の過去問題にひたすら取り組んだ。それくらい勉強に没頭した経験は貴重な成功体験で、その後の人生での自信となった。このことは、後年、税理士試験を受けることとなったときにとても役に立った。
さて、当然だが二回目の受験は、運悪く数学でずっこけてわずかに心配をしたが余裕の点数で志望大学に合格した。そして大学入試の合格発表は、これまた本部のある中之島であったので、やはり地下鉄で肥後橋まで来て合格発表を見に行った。たしか受験番号が3024番だったように思うが、その番号を掲示板に見つけたときはさすがにうれしく、近くの公衆電話から母親に合格の報告をした。
入学に必要な書類をもらって、肥後橋駅のホームへの階段を下りたときの記憶は今でも鮮明である。そして手続きの期限内に必要書類を整えて再び肥後橋駅から大学本部に行ったときのことも鮮明に覚えている。確かそのとき、今は建て替えられた朝日新聞社の地下に、僕の大好物だったインデアン・カレーのお店があって、帰りに寄ったことも覚えている。いまから半世紀前のことである。
そして、奇しくも今、僕はその中之島に住み、毎日ほどに地下鉄の肥後橋駅を利用している。考えれば奇縁である。大学の本部は今はなく、いまだに敷地の再利用は全部は終わっていない。僕が合格発表を見に行ったところは、いま自宅の向いにあって、大阪市の市立科学館となっている。そして懐かしいYMCAは自宅から歩いて数分のところにある。考えてみれば肥後橋駅に縁があったのだろう。どうということのない話だが、今日、駅のプラットホームを降り立ってふとそんなことを思い出した。それは僕の頭の中の、セピア色で、懐かしく少し誇らしく、そして少し甘酸っぱい思い出である。