年を取ったらどうあるべきか?若い人にもきっと役に立つ
2013.11.07
ブログ
最近、ギリシア・ローマの
倫理哲学に、はまっていて、
直近は、キケロの
『老年について』を読んだ。
これは、セネカが
年を取ったら、
死ぬ準備をせねばいけないので
けっこう忙しいのだ、
と言っていたのに
ピンときて、
なるほど年を取ったら
そういうことだよな
と思って読んだのである。
この本、岩波文庫から出ているが
80ページにみたない小論で
たいへん読みやすい。
しかも名訳だ。
とても思いが伝わってくるのである。
皆さんもご興味があれば
ぜひお読みください。
話の内容は次のとおりである。
語り手は、
著名な政治家で文筆家の大カトー
ということになっていて
彼が親せき筋の
小スキピオとその友人でもある
ラエリウスのリクエストに応えて
自らの老いの人生観を
語って聞かせるというわけである。
キケロが自分の老年観を
大カトーの口を借りて
語るのである。
大カトー(キケロ)は
冒頭、次のようにいう。
「すべてその類の不平(老人の繰り言)は、
性格のせいであって、年齢のせいではない。
節度があり気むずかしさや不人情とは無縁の老人は
耐えやすい老年を送る・・・」
「老年を守るにもっともふさわしい武器は、
諸々の徳を身につけ実践することだ。
生涯にわたって徳が涵養されたなら、
長く深く生きたあかつきに
驚くべき果実をもたらしてくれる。
徳は、その人の末期においてさえ
その人を捨てて去ることはないばかりか、
-それが徳のもっとも重要な意義ではある-
人生を善く生きたという意識と、
多くのことを徳をもって行なった
という思い出ほど喜ばしいことはないのだから」
彼は、老年期がみじめなものだと
思われる理由を
①老年は公的活動から遠ざけるから
②老年は肉体を弱くするから
③老年はほとんどの快楽を奪い去るから
④老年は死から遠く離れていないから
の4つ挙げている。
そして、一つひとつを
本当にそうなのか
吟味していくわけである。
まず、公的活動へのかかわりについて
次のように話をする。
「老人は公の活動に与っていないという者は
まともな議論をしていない。
それはちょうど、船を動かすにあたり、
ある者はマストに登り、
ある者は甲板を駆けまわり、
ある者はあかを汲みだしているのに、
船尾で舵を握りじっと座っている舵取りは何もしていない、
というようなものである。
確かに若者のするようなことはしていない。
しかし、はるかに大きくて重要なことをしているのだ。
肉体の力とか、速さ、機敏さではなく、
思慮・権威・見識で大事業はなしとげられる。
老年はそれらを奪い取られないばかりか、
いっそう増進するものなのである。」
そして、それを支える知力について
次のようにいう。
「記憶力は衰える、というか。
その鍛錬を怠った場合、
あるいは性魯鈍である場合は確かにそうだ。
・・・
熱意と勤勉が持続しさえすれば、
老人にも知力はとどまる。」
「毎日何かを学び加えつつ老いていく
・・・
わしもそうだ。
歳をとってからギリシアの文学を学んだ。
それを、まるで積年の渇きを癒さんとするがごとく、
むさぼるように学びとったので、
今お前たちの目の前で範例として
引いているまさにこの諸知識が、
わしのものになったのだ。」
次に、体力についてだ。
「今、青年の体力をほしいなどと思わないのは、
ちょうど、若い時に牛や象の力が欲しいと
思わなかったのと同じだ。
在るものを使う、そして何をするにしても
体力に応じて行うのがよいのだ。」
「朗々たる声の響きといったものは、
どういうわけか老年になって輝き出る。
・・・
雄弁な老人の整然とした穏やかな演説は
それだけで傾聴を勝ちとるものだ。」
「そもそもわしらは、青年を教え諭し、
義務に属するあらゆる奉仕へと
訓育してやれるだけの体力を、
老年まで温存しておくのではないか。」
「人生の行程は定まっている。
自然の道は一本で、
しかも折り返しがない。
そして人生の各部分には
それぞれその時にふさわしい性質が与えられている。
少年のひ弱さ、若者の覇気、
早安定期に有る者の重厚さ、
老年期の円熟、
いずれもその時に取り入れなければならない
自然の恵みのようなものを持っているのだ。」
「鍛錬と節制があれば、
老いてなお往時の頑健さを何がしか
保つことができるのだ。」
「健康に配慮すべきである。
ほどよい運動を行い、
飲食は体力を圧し潰すほどではなく、
体力が回復されるだけを摂るべきである。
また、肉体だけでなく、
精神と心をいっそう労わらねばならぬ。
この二つもまた、ランプに油を
注ぎ足すようにしてやらないと、
老いと共に消えていくからだ。」
このキケロの考え方から
思考力は決して老いないということがわかる。
それは、習慣と訓練の賜物だということだ。
三つ目の快楽についてである。
「人間はまた、
自然からというか神様からというか、
精神にもまして素晴らしいものは
授けられていないのだが、
この天来の賜物にとっては
快楽ほど有害なものはない。
というのは、欲望が支配するところでは
自制の出る幕はなく、
快楽の王国では徳の立場が
まったくないからである。」
「老年は宴会や山盛りの食卓や
盃責めとは無縁だが、
だからこそ酩酊や消化不良や
不眠とも無縁なのだ。
・・・
老年は羽目をはずした宴会には
縁はなくとも、
節度ある酒席を楽しむことはできるのだ。」
「老年にとって、いわば肉欲や野望や
争いや敵意やあらゆる欲望への
服役期間が満了して、
心が自足している、
いわゆる心が自分自身と共に生きる、
というのは何と価値あることか。」
「自分は日々多くを学び加えつつ
老いていく。」
このように学びの楽しみについて言及したあと
農業の楽しみについて多くの紙片をさいて
書き綴っていく。
「よく耕された農地以上に
用いて実り多く、
眺めて端然たるものはありえない。」
と、結論づけ、
樹木や果実などを育て、
生き物を育てることが
どれほど自然の恵み、創造力を感じ、
こころ安らぎ、豊かなものかを示してくれる。
「しかし留意しておいて欲しいのは、
わしがこ
の談話全体をとおして
褒めているのは、
青年期の基礎の上に
打ち建てられた老年だということだ。
そこからまた、これは以前にも述べて
大いに皆人の賛同を得たことだが、
言葉で自己弁護をしなければならぬような
老年はみじめだ、ということになる。
白髪も皺もにわかに
権威を掴みかかることはできぬ。
まっとうに生きた前半生は、
最後に至って権威という
果実を掴むのだ。」
やはりそうか、否やはりそうだ。
これをお読みの若い方々は
いまからでも遅くない。
悔いなく全力で生きられることだ。
すてきな老年期は、
そのごほうびであるに決まっている。
もっと、早く気がついていたらなあ(××)
最後のテーマは
近づきつつある死だ。
「青年が望むところを
老人はすでに達成しているのだから、
それだけ老人の方がよい状況にある。
あちらは長く生きたいと欲するが、
こちらは既に長く生きたのである。」
「ただ徳と善き行いによって
達成したことだけが残る。
時間も日も年も過ぎて往く。
そして往時は帰らず、
後来は知る由もない。
人は皆、生きるべく与えられただけの
時に満足しなければならぬ。」
「束の間の人生も
善く生き気高く生きるためには
十分に長いのだ。
・・・
春がいわば青春を表し、
来たるべき実りを約束するのに対し、
残りの季節は実りを刈り、
取り入れるのにふさわしいのだから。
そして老年の実りとは、
何度も述べたように、
以前に味わった善きことの
豊穣なる思い出に他ならないのだ。」
「青年が死ぬのは、熾(さか)んな炎が
多量の水で鎮められるようなもの、
一方老人が死ぬのは、燃え尽きた火が
何の力を加えずともひとりでに
消えていくようなもの、と思えるのだ。
・・・
死に近づけば近づくほど、
いわば陸地を認めて、
長い航海の果てについに
港に入ろうとするかのように
思われるのだ。」
「老年には定まった期限がなくて、
義務の奉仕を果たし続け、
しかも死を軽んじることができる限り、
立派に生きていけるのだ。
そこから、老人の方が
青年以上に気概に満ち毅然としている、
ということが起こる。」
「死をものともせぬように
若い時から練習しておかなければならない。
その練習がないと
何人も平静な心ではいられない。」
「少なくともわしの見るところでは間違いなく、
全ての仕事に満ち足りることが
人生に満ち足りることになる。
・・・
そして老年には
いわば最後の仕事がある。
前の各年代の仕事が消えていくように、
老年の仕事も消えてなくなるのだ。
そうなった時には、
人生に満ち足りて
死の時が熟するのである。」
「目に中に入れても痛くない息子たちよ、
わしがお前たちから
離れていったとしても、
どこにもいなくなるなどと
考えてはならぬ。
一緒にいた時でさえ、
お前たちはわしの魂は見えなかったが、
それがこの体の中にあるということは、
わしの行いから理解していたではないか。
それだから、たとえ
お前たちに見えなくなったとしても
あり続けるのだと信じるがよい。」
「後の世が
自分たちに関わりを持つという意識もなしに、
後の世まで記憶されるような偉業を
あれほど沢山なしとげたとは、
誰が何と言おうと納得できない。」
ここに、人間の世の先を見通した
仕事にかける思いの真髄を見た。
「せっかくコースを走り終えたのに、
ゴールから出発点へと
呼び戻されるようなことはまっぴらだ。」
そのとおりだ。
わたしももういっぺん人生をやり直すなんて
まっぴらである。
「生きてきたことに
不満を覚えるものでもない。
むだに生まれてきたと考えずに
済むような生き方をしてきたからな。」
最後に
「やはり人間はそれぞれ
ふさわしい時に
消え去るのが望ましい。
ちなみに、人生における老年とは
芝居における終幕のようなもの。
そこでへとへとになることは
避けなければならない。
とりわけ十分に味わい尽くした後ではな。」
これが結論だろう。
終わりには頃合いが大事だ。
適切になときに消えていけばよい。
珠玉の名文だ。
ぜひそうしたいものだ。
そのときまでは、
人生を過ごしてきた者の
叡智を活かして
若い人たちのじゃまにならぬように
若い人たちを養育できればよいな。
組織も、社会と同じように
老・壮・青の各年代が
それぞれ持ち場で貢献する組織が
よいのだと思うこの頃である。
そして、
しかし、すてきな老年期を
迎えるためには
いわれてみれば当たり前なのだが、
一所懸命な
それまでの人生があったことが
前提だということである。
コンサルティングに強い御堂筋税理士法人&経営エンジン研究所
大阪 税理士 小笠原 でした。