続・二宮尊徳先生のお話~報徳思想②
2013.09.20
ブログ
第二篇 天道と人道
天道とは、自然の法則です。
昔から、中国では天があって、
そこから、人が生まれていると考えられていました。
それはそうやろなと、なんとなく私もなっとくしています。
ですから天にのっとった生き方が無理がない、
つまり、かなっているわけです。
これを『天道』というのです。
でも、人間は特殊な存在なのです。
それは自分という意識があるからです。
そして、善悪の概念をもって、自然を加工して
独自の営みをしています。
そこでは自然のままにすると都合の悪いことがあります。
たとえば、田畑はほったらかしておくと草木が生えて使えなくなります。
自然に反して手入れをし続けてこそ人間にとっては役に立つわけです。
それを『人道』というわけです。
ですから、人間は、天道に沿う部分と
人道に従う部分とがあるわけです。
それが天道と人道のです。
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・およそ世界は旋転してやまない。
これがすなわち天理の常なのだ。
人道はこれとはちがう。
人道はその天理に従いながらも、
その内でそれぞれ区別をして、
人の身に便利なものを善として、不便なものを悪とする。
ここまで来ると天理とは違ってくる。
なぜなら人道は人の立てるものだからだ。
・・・だから、ともすれば破れようとする。
それゆえまつりごとを立てたり、教えを立てたり、
刑罰法制を定めたり、礼法を設けたり、
やかましくうるさく世話をやいて、ようやく人道は立つのだ。
それなのに、これを天理自然の道と思うのは大きな間違いだ。
よく考えるがよい。
・ばかでも悪人でも、よく教えるがよい。
教えて言うことをきかなくても、いらいらすることはない。
聞かぬからとて捨てることなく、幾度も幾度も教えるがよい。
教えて用いられなくとも、おこってはいけない。
聞かぬからといって捨てるのは不仁というものだし、
用いぬからといっておこるのは不智というものだ。
不仁・不智は徳を積もうとする者の恐れるところだ。
だから仁と智と二つを心がけて、わが徳を全うするがよい。
⇒こういうくらいの悟った境地に立てたら、
さぞかし、経営者としてもよい味を出せるだろうなあ。
・「我という、その大元を尋ぬれば、食うと着るとの二つなりけり。」
人間世界のことは政治も教法も、
みなこの二つ安全をはかるためにほかならぬのであって、
その他は枝葉であり潤色に過ぎない。
⇒それくらいの質素なくらしで生きていけるというわけです。
・悟道というものは、ただ自然の行くところを見るだけのものだし、
人道は行き当るまで行けというものだ。
・・・私がいつもいうことだが、
親の看病をしていて、もはやおぼつかないなどと見る者は、
親子の至情を尽くすことはできまい。
魂が去って、からだが冷えたのちでさえ、
まだ全快されることがあろうかと思う者でなければ、
尽くすということはできない。
それゆえ、悟道と人道とは混合してはならぬのだ。
悟道はただ自然の行くところを観ずるもので、
その上でつとめる立場が人道にあるのだ。
⇒人情は、理屈ではない部分がある。
こうありたいものですね。
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大阪 税理士 小笠原 でした。