御堂筋税理士法人創業者ブログ

中国の古典中の古典に『書経』という本がある。
古くは単に『書』といわれていたものである。
必要があって、まじめに読み直した。

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中国の歴史の始まりといえば
伝説上の王、神農・伏義は別として

まずは、夏王朝の堯に始まり、
その禅譲を受けた舜、
ついで禹へと続く系譜が模範となる。

次は、堕落した夏王朝の桀王を討ち
殷(商)をして中国の支配を確立した湯王
それを助け、導いた
いやもっというと決定的な力をもった伊尹(いいん)

さらに、また堕落した商王朝の紂王を討ち
周をして中国の支配を確立した
文王、その子武王、
さらにその子成王を
輔弼(ほひつ;参謀・教え人として助けた)した周公旦

こうした王たちが聖人として
書経に記されている。

そして、これらの諸王、輔弼者の事績や記録を読むと
王、リーダー、経営者としてのあり方について
考えざるをえないことが多々ある。

ここでは二つのことを考えたい。
一つは、リーダーのあり方である。
今一つは、リーダーには指導者が必要だという点である。

まずは、中国の古代の人々の思想として
人間という存在は
天(太陽をイメージする神)の創造物であり、
それをまとめる役として王がおり、
それは天からの下命により
その役が仰せつけられるものだということである。

したがって、王とその承継は、
絶対的なものではなく、
当代の王の統治のあり方が
天に叶い続けるものである限り
その王朝は存続できるということである。

だから、常にリーダーは
徳を明らかにして世に善政を敷き、
罰することに慎重にしなければならないことになる。

徳を明らかにするためには、
常に敬し、つつしむことが不可欠なのである。

ここが、まず深く考えさせられる点である。
大企業の経営者にせよ、
創業者の経営者にせよ、
多かれ少なかれ、さまざまな欲求に
突き動かされていると思う。

その欲求とは、
世の中への貢献もあれば
承認欲もあれば、支配欲もあり、
金銭欲もあろう。

だが、組織の長となった瞬間に
メンバーからの厳しい目にさらされて
人間が元来持っている(と私は思う)
その倫理観にかなう新たな価値観を意識し、
身に着けざるをえないことになる。

それは往々、世俗的欲望とは
相反するものとなる。
そこに、人柄的脱皮と成長の
必要性の自覚と葛藤が起こってくる。

書経における
諸王のあり方、聖人の訓戒を読んでいると
背筋が伸びるとともに
果たして、私にできるのだろうかとの思いも出てくる。
だが、選択肢はない。

ところで、
湯王には、伊尹という存在があった。
伊尹は宰相かもしれないが、
それをはるかに超える存在である。
周公旦も同じである。

彼らは王を指導し、導き、
代理し、補完したのみならず
できの悪い王は追放さえしたのである。
これはすごい力である。

というか、
それが権力の分権ということかもしれない。
王は、天から下命を受けて、
天の子である人民を
取りまとめて保護する係なのであるから
それに叶う限りで王たるに留まるのである。

これは王の存在意義について
まったく新鮮で、異相な視点を提供するのではないか。
経営者の場合とて、本質は同じだ。

われわれ経営者は常にそのことを
自戒し、意識しなければならないし、

師を持たなければならないし、
臣(幹部や補完者)たるものは常に、
君主(経営者)に対して
悪しきことは否という覚悟を
持たなければならないということだ。

リーダーおよび幹部が
深く、深く考えなければならない記述が
ちりばめられている教科書が『書経』である。

その後、論語、孟子、大学、中庸の四書などに
多く引用され、論考されている所以である。

コンサルティングに強い御堂筋税理士法人&経営エンジン研究所
大阪 税理士 小笠原 でした。


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