御堂筋税理士法人創業者ブログ

第6講 人生の始終 

人生のお役立ちは四十歳以降の後半であり、
それまでに永い研鑽修行が必要だ。


 人生の山の頂、折り返し点は四十歳であり、
そのころには大体の見通しがついていなければならない。

 若い人の日々の歩みは、その一歩一歩が
四十歳の関所をいかに越えるかを決定しつつある。

 国家社会にお役に立つのは四十以降のことであり、
それまではもっぱら修業時代だと心得ねばならない。

 それ以前に職についたとしても正式に資格があると
考えてはならず、准資格だと心得、研修に専心すべきだ。

 四十歳までの準備が手薄だと、
それ以降六十歳までの活動も勢い薄弱とならざるをえない。

 ものごとは、準備するには永い時間を要するものだが、
ひとたびそれを見る、味わうとなると短時間で終わる。

 人生においても、よほど早くからしっかり考え、
長時間の準備をしておかないとお役に立つ人間にはなれない。

 

第7講 志学

真の自覚的生涯は志を立てることから始まり、
そうでない人生は碌々たるものとならない。

 すべての人間の自覚的な生涯は、
いわゆる大学の道をこころざす志学に始まるといってよい。

 大学の道とは、わが身を修めることを中心としつつ、
ついには天下国家をも治めるに至る人間の歩みをいう。

 孔子の志学は、自分の生命を生涯をかけて磨き、
道により治めずんば已まぬという一大決心である。

 天からうけた力の一切を生涯をかけて出しきり、
国家社会のお役に立つところ以外に人生の意義はない。

 人間の力とは井戸水みたいなもので、
水をかい出してもまた元のように貯まるものである。

 天からうけた力を出し切るには、
偉人の伝記を読むことから始めるのがよい。

 その偉人をしてそのような一生をたどらせた、
真の内面的動力は何であったのかを突き止めるのである。

 

第8章 学問・修養の目標 

学問修養の本質は、自己の天分の発揮を
世の中への貢献に結びつけること。


 ものごとは、その根本眼目を明らかにしない限り、
いかに骨折ってみても真の効果はあがらない。

 なぜなら、ものごとの持続が困難だというのは、
結局真の目標をはっきりとつかんでいないからである。

 学問修養の必要性は、人となる道、日本国民としての道、
天性を実現する途を明らかにする点にある。

 天分の発揮というものは、単に自分本位の立場で
考える程度では、十分なことはできない。

 自分というものを超えたある何物かに、
自己をささげるという気持ちがなければできない。

 私たちの学問修養の眼目も、学問の光に照らされて自分を浄め、
国家社会に貢献することに他ならぬ。

 万人いずれも唯一無二、何人にも委せられない
唯一独自の任務に服している。

 自己の生涯の歩みが、同じ道を歩む人びとの参考になり、
それによりその世界の一隅に

 シャベルいっぱいの土にもせよ、
これを盛り上げようとするとき、

 その人の眼光は常に、我が国の斯界の趨勢に対して
向けられるようになる。

 私たち日本国民としては、学問修養の眼目は、
自己の歩みが民族の歩みとどう切り結ぶかに集中すべき。

 

第9章 読書 

読書は人生において重大で、
体験も読書に照らして血肉になり、確信を得て判断できる。


 読書の人生における意味は非常に重大で、
学問・修養も読書抜きではとうてい考えられない。

 読書の人生に対する意義は、
「心の食物」ということばがもっともよく当る。

 人生における深刻な経験は優れた心の養分だが、
読書による教えに光に照らしてみない限り

 いかに貴重な人生経験といえども、
その意味がないばかりか、時には自他ともに傷つく結果ともなる。

 これはちょうど劇薬が、うまく生かせば良薬にもなるが、
知らなければかえって人びとを損なうに似ている。

 人間の内面生活の半ばは読書に費やし、
他半分はかく知り得たところを実践して現実上に実現していくこと。

 多くの人がそれに気づいていないのは、
その人がおめでたく大した志ももたないからである。

 真に大志を抱き実現していこうとする限り、
何より偉人や先哲の足跡と、こもる思想信念を探る以外道はない。

 読書はかように心の養分であるから、
一日読書を廃したら、それだけ真の自己はへたばるものと思うべし。

 今日自分は心の食物として、何をとったかと反省してみれば、
だれだってそのことはわかることである。

 真の確信なくしては、現実の処断を明確に断行することはできない。

 真に明確な断案というものは、
どうしても道理に通達することによって、初めて得られる。

 そこで偉大な実践家というものは、
一般に大なる読書家で、さらには著述もなし得る
ていの人が多いといえる。

P68に推薦図書紹介
「報徳記」「二宮翁夜話」(二宮尊徳)「講孟余話」(吉田松陰)
「万葉集」「論語」「真宗聖典」「マルクスアウレリウス瞑想録」
「芭蕉句集」「モンテーニュ随想録」「益軒十訓」(貝原益軒)
「玉勝間」(本居宣長)「隠者の夕暮」(ペスタロッチー)
「プラトン餐宴」「エミール」(ルソー)「啓発録」(橋本佐内)…

 

第10章 尚友

道を求めることでは、師をもち教わり、
同門の友との関係でそれを磨いていく。

 尚友とは、友を尚(たっと)ぶ意で、
古来読書と並べて、読書尚友というふうに使われる言葉である。

  友を尚ぶ必要は、畢竟道の上からであり、
自分より歩を進めて尊敬すべきだと認めるとき友を尚ぶ。

 人を知る標準として、?いかなる人を師匠としているか、
1.いかなることを自分の一生の目標としているか、
2.今日までいかなることをしてきたか、
3.愛読書がいかなるものか、
4.その人に友人はだれか、がある。

  これを翻って考えると、諸々の点は一つの根本に帰する、
それはだれを心の師とするかである。

  真に尊敬するに足る友人とは、同門の道の上の友である。
そこで語り合う問題は常に人生の問題だからだ。

  師弟関係が縦であり、絶対的なものを教わるとすれば、
友人関係は横であり、相対的なものを教えられる。

  哲学において、真の絶対は、
相対の面を含んで始めて絶対であるといわれる。

  師弟の道だけで友人の道が正しく踏み行なえないのでは、
人柄に至らないところのあることを示すものである。

  結局、真に道を求めてこそ、師とすべき人にもめぐり会い、同門の友にもめぐり会うことができるだろう。

 

第11章 人と禽獣と異なるゆえん

人には叡智があり、それは受生の意義と使命の自覚と
実現の努力にある。


 人間としての真の自覚の根底には、
人に生まれたゆえんを明らかにすることがなければならぬ。

  人は、喜びといい感謝といっても、
すべて積極的にその根拠を把握しない限り、
その真の深さには至り得ない。

  人と禽獣との差は、「言葉」「道具」の使用に求める向きもあるが、
「理性」の有無をもってその基準となしえる。

  しかし真の根本となる異なりのゆえんは、
理知の奥底にあり、それを照らし導く、真の人生の叡智である。

  人間として真に正しい道を知る叡智は、
人間界を打ち超えたところから照射してくるといえる。

  私たちは、自分の姿をわれとわが心にはっきりと映す
鏡のような心にならない限り、真の正しい道は見えない。

  かような反省知、自覚知を深めていくことによって、
私たちは万有における自己の真の位置を知り、
自らの踏みいくべき大道を見いだすことができる。

  かくして人間が、この天地宇宙に生まれた
一微小存在としての真の人間の道は、
天地を背景として初めて明らかになるのであり、
さらには天地の大道と合するに至って、
初めて真の落ち着きを得るわけである。

  であるから、人間は、自己がこの世に生まれ出た真の意義を知り、
自らの使命を自覚して、いささかでもこれを実現しようとするところに、
人と禽獣との真の本質的違いがあるというべきである。

いかがでしょうか?


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