御堂筋税理士法人創業者ブログ

 文箭先輩は、わたしの大学の大先輩である。わたしが50歳を超えてから、大学の同窓会のご縁でお知り合いにならせていただいた。その後、ご依頼を受けて年に数度、先輩を囲む飲み会を開催させていただき、たくさんのお話をお聞かせいただき、その謦咳に触れさせていただいた。コロナが流行り出してしばらくその会も開くことができず、しばらくご尊顔を拝することができないでいた。

 そんな折、携帯電話が鳴った。取ると先輩の奥様からのお電話であった。心にさざ波が立った。…それは先輩がお亡くなりになったとの知らせであった。ついにその時が来たかとわたしは思った。ご享年92歳の大往生でいらっしゃった。

 奥様がわたしごとき者に連絡をくださったのは、わたしが先輩を囲む親睦会の場の設営係をしていたからだった。会のメンバーの皆様にその旨を伝えてくださいということであった。お話の中で、先輩が会のことを喜んでおられ、設営役のわたしについてもお話しされることがあったとお聞きした。わたしはとても光栄に感じ、うれしかった。

 先輩とはそれほど長く親しくお付き合いをさせていただいたわけではなかったが、それでもとても多くのことを学ばせていただいた。先輩との出会いと交流について記したわたしの手記がある。はずかしい限りだがご紹介をしたい。

「(字を書くのが好きで練習をしていたことにまつわって)印象に残るのは、元大阪屋証券の社長であられた大阪大学の大先輩、文箭さん(現日本ベンチャーキャピタル㈱相談役)との出会いだった。私はその頃、人脈を広げようと自ら志願して、大学の同窓会活動に首を突っ込みだしていた。同窓会の事務局長、Nさんと会のHPの刷新を担当していて、そこに載せる記事を書くために、各界の先輩へのインタビューをしていた。文箭先輩へもインタビューすることになり日時を約束していたが、私はそれを失念してしまった。Nさんから電話をもらい、びっくりして、直ちに先輩のオフィスに駆けつけた。さすがにやんわりとではあるが叱られた。当然のことで、私は言い訳のしようもなく、平身低頭で謝った。何とかインタビューを済まして帰宅したものの、とても恥ずかしくていたたまれず、すぐにお詫びのお手紙を認めてお送りした。それからしばらくして文箭先輩からご連絡をいただいた。「一度オフィスに遊びに来ないか」とお誘いを受け、おなじ三休橋通りにある先輩の事務所にお伺いしたら、「君は字が上手やなあ。」と褒められた。『芸は身を助ける』とはこのことだ。以来、先輩には可愛がっていただくようになった。」 

「…あるとき先輩は、経済界の現役の後輩諸君の話を聞きたいから、飲み会を組織してくれと言われた。私は、当時クボタの専務だったS君と松下電工の執行役員からケイミューの副社長になっていたT君に声を掛けた。文箭さんも独自に、目を掛けられていた㈱SのSさんに依頼をされた。また所属されている大阪ロータリークラブの関係でお知り合いだった、N電鉄のCOOだったWさん、H造船の社長だったFさんなどに声を掛けられ、10人ほどで定期的な意見交換会をすることになった。
 みなさん多忙な財界人である。私のような人間は場違いに思い、いつも恐縮していた。特に居場所もないように思い、私は飲み会の場所選びや案内を出し出欠を確認する係をさせていただくようになった。
 私は、こうした場は苦手であり、委縮する質で気の利いた話もできないから、話の聞き役に徹した。ことに文箭先輩は話がお上手で若いころの営業の武勇伝や、広い財界での交際のお話しはめっぽうおもしろく、聞き入ってしまった。   
 しかし、私は大変に勉強になった。財界などの内側に入ってお付き合いするなどといったことは、こうした機会がなければ絶対に経験できなかったからである。
 先輩には、たまにランチや夕食にお誘いいただき、親しく交わらせていただいた。また、私の方もM&Aなどのご相談を投げかけさせていただいたこともあった。お付き合いの範囲がちがうので、クライアントの紹介ではご本人の申告やご親友のご紹介などに限られたが、とても得難い人脈となった。余談になるが、その後、Sさん、Tさんからの依頼で、日本WHO協会の幹事をさせていただいていることを付記しておきたい。こうした経験なども、先に話した下座業のひとつである。
 やはり、大学の人脈はだいじである。今になって思えば、大学というところは、もちろん勉強をするところではあるが、人生での大きな財産になる友達、知己をつくる場である。諸君(弊社のメンバーのこと)もよく知っておいてもらいたい。」

 先輩がまだ学生であられたころ、阪急の創業者である伝説的財界人の小林一三翁のご自宅に突撃訪問されたこと、証券会社に入ってから営業マンとして、松下幸之助翁や幾多の財界人にこれも突撃営業されたことなど、その武勇伝のお話はめっぽうおもしろかった。たまにガスビルの最上階のガスビル食堂でランチをごちそうになったり、一度などわたしがお話しした新地のおすし屋さん『平野』で親しくお話をお聴きしたことなど、とても大切なわたしの思い出となっている。

 サラリーマン生活をわずか4年半で脱落したできそこないのわたしなどには、決してうかがい知れない財界という世界を知り得たのは先輩のおかげである。お話をお聴きした限りでは、そこにはすてきな成功者の皆さん方の多彩なご交際ぶりがあり、それは極めて人間的なものであってとても興味深いものであった。

 また、ご人徳で多くの財界人の皆さんからの出資で、日本で屈指のベンチャーキャピタル会社を立ち上げ、100社を超える会社を上場させた経営のご手腕や方法、また大阪大学の経済学部の同窓会長や大阪ロータリークラブの会長などをご経験されたお話しをお聞かせくださり、その中での多彩なご交際ぶりやエピソードをお聞かせいただいたのもまたとても勉強になった

 ただ、わたしには先輩に披歴するような成功譚もなくお話の聴き手しかできないことが申し訳なく思われた。日本JCの会頭まで務められたSさんのように縦横無尽のご活躍の経験をされた方のように対等にお話しできたらよかったのだが。それでも、先輩が大変貴重なお時間をわたしごときに割り当てて下さったのは何ゆえだったのだろうか。聞く由もないが、ただただありがたく、慈父のように感じられる。

 先輩ご逝去の訃報に触れ、わたしは会のメンバーの方々にその報を書き送った。Sさんが文箭さんがお元気でいらっしゃる限りこの会は続けて行こうとおっしゃったことが耳に残っている。お忙しいメンバーの方々が、嬉々としてご参集されるお姿に、先輩のこよなく人を引き付けるお人柄があったと思う。わたしはただそのお手伝いをさせていただくのが役割だと思ってきた。先輩のご冥福を心からお祈りしたい。

 

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