アドラー心理学『子どもの教育』からの抜粋
2020.10.26
読書と修養
アドラー心理学、わたし的には「そうなやあ」ともっともすっと心に入ります。最近読んだのがタイトルの本、何を書いているかというと、FBでも紹介しましたが、「兄弟姉妹関係でおかれた位置から生じる劣等感の克服としての優越性獲得へのエネルギーが性格を形成する。それを健全たらしめるものは共同体感覚。そして親や祖父母、教師はそれを教導する。…
論理思考や数字のもつ意義、謙虚さについてのフランクリンの述懐など、多くの「なるほどな」と考えさせる叙述fulな書物」という感じです。そこで、こころに残ったフレーズをランダムにご紹介しておきます。わたしが読みながらずきっときたところなので、皆さんにはやんやそれ、意味不明?ということも多いかもしれませんがご容赦を。
「すべての子どもたちが優越性を追求しており、親や教師がしなければならないことは、この努力が実りのある有用なものを生み出すよう導くということである。…優越性の追求を有用なものとそうでないものに区別する根拠は、共同体感覚である。」
「木は果実によって判断される。共同体にとって有用であったかそうでなかったかは、行動の結果により示される。」
「自分たちの人生行動を論理的で客観的な視点から見ない人は、自分の行動パターンの統一性、一貫性を見ることはできない。…子どもの人生のあらゆる出来事を解釈するときに、人生はつながりのない出来事の連続ではなく、連続した糸であると子どもに教えることが必要である。」
「子どもが変わるとすれば、状況が変わるからである。例えば、思いがけない成功を収めた時、あるいは、担任が優しい教師に代わった時である。新しい教師は、子どものことを理解し、熱心に話し、子どもが持っているわずかな勇気をくじかず、新しい勇気を与える。このような状況では、怠惰であることから積極的であることへの変化は、時に驚くほど突然に起こる。」
「子どもの自己評価はこの上なく重要である。…子どもが問題に取りかかる方法を観察することはできる。…子どもの全体像を心に留めておき、個人心理学の原理に照らせば、困難は自信の欠如、過小評価にあることがわかる。…虚弱、不具、醜い子どもたちの大部分は強い劣等感を持っているといても間違いはない。これは二つの極端な状態で現れる。即ち、話しかけられると尻込みして退きびくびくするか、あるいは、攻撃的であるかのどちらかである。」
「子どもの成長を決めるのは、…外界の実在とそれへの自分の関係について子どもがたまたまする解釈である。…本質的なことは、大人が子どもの状況を子ども自身の目で見て、子ども自身の誤った判断で解釈するということである。」
「すべての偉大な業績、人間の能力のあらゆる発達は、社会生活という圧力のもと、共同体感覚の方へと向けて行われる。」
「いつも他の人と交わっており、言葉と論理とコモンセンスを使って他の人と交わらなければならない人は、共同体感覚を獲得し、発達させなければならない。これがすべての論理的思考の究極の目標である。」
「数で表現できるものだけが無条件に真理であると受け入れられる傾向があるのだろうか。数の操作は、他の思考過程よりも、仲間に容易に伝えられ、同時に、容易に扱えるからである。他の人に伝えることができず、他の人がわれわれと共有しない真理は、あまり信用できない。プラトンがすべての哲学のモデルを和人数学に求めようとした時に、このような考えがあったことは疑いない。」
上の2つのフレーズは、私が経営幹部のトレーニングを行なうときに必要なマネジメントスキルの中で、思考力として論理思考と数字脳がだいじな究極の理由を明らかにしてくれているので思わず快哉を叫びました。
「道徳は、われわれが共同体と他の人の権利を考える時にだけ現れるのである。」
「子どもが家族の中でどんな地位を占めたかを知ることが重要である。家族布置の中での位置が確認されて初めて子どもを理解することができるからである。」
「すべての子どもたちを扱うのに同じ教育の規則に従うことができない。どの子どもも独自なのである。」
「世界を反対物へとはっきりと分けることに慣れている人たちは、子どもっぽい思考形式を持ち続けていると仮定してよいだろう。」…いるいるこんな人
「子どもにぞんざいに接してはならず、いつも勇気づけ、子どもたちに、空想と世界の間に溝を創り出すことがないよう、現実の人生の重要性を説明するようにしなければならない。」
「子どもには二歳の時に、少年であるか少女であるかを教えるべきである。また、その時には、性を変えることはできず、少年は男に、少女は女になるということを説明しなければならない。」
「女性を過小評価し、少年を優れたものとして見なす傾向のある性についてのいかなる議論も避けるべきである。子どもたちは、男性も女性も同じ価値があるということを理解するようにするべきである、」
「親も教師も等しくこどもの精神生活についての新しい心理学の洞察によって利益を受けることができる。結局のところ、子どもがしかるべき教育を受けさえすれば、こどもの教育と発達が、主に親の指導のもとに行なわれようと、教師の指導のもとに行なわれようとあまり重要ではない。…教育のもっとも重要な部分であるパーソナリティを発達させることである。」
「心理学と教育は同じ実在と問題の二つの局面である。心を導くことができるためには、その働きを知る必要がある。そして、心とその働きを知っている人は、心をより高く普遍的な目標へと向けるために知識を用いないわけにはいかない。」
「大切なのは、子どもが受け取る点数ではなく、点数が知性、関心、集中する能力、等々に関して示すものである。」
「人生において持つ最大の恐怖は、病気と死の思いである…親は、人生は限りあるものだが、生きるに値するものであるには十分に長いという印象を子どもたちに与えなければならない。」
「子ども時代の経験は、子どもの心に刻まれた生きた碑文のようなものである。」
「六十、七十、あるいは八十の人にすら仕事を辞めるように勧めてはいけない。仕事を続ける方が、人生の計画の全体を変えるより容易なのである。…祖父母は生きていて、この世でかちがあるということを証明しなければならない。」
以上は、新たな孫もできて、祖父としての教育の機会を与えられたものの、子育て教室での受講ノートです。末尾の『親の教育』という章は、わたしが本当に国家的施策として必要やなあと思っているフレーズです。
ここから、B・フランクリン自伝からの引用ですが、謙虚はわたし的にも大変カレントで重々しいテーマなので全文近く抜粋してみました。深くうなずきながら拝読しました。
「クェーカー教徒の友人が親切にも私に教えてくれた。私は一般に高慢であると思われている。そのことはしばしば会話の中に現れ、どんなことを議論する時でも正しいということだけに満足せず、威圧し、かなり不遜であると。…そこで、もしできるならば、この悪や愚行を何とかして矯正しようと努める決心をした。…(わたしも習わさせてもらった『フランクリンの13の徳目』の修養方法である)…私は、この徳を<実際に>獲得するのに大いに成功したことを誇ることはできない。しかし、そういうふうに<見える>ことについては、大いに誇ることができる。私は他の人の感情に直接的に反対すること、私自身の感情を積極的に表明するのはすべて控えることを習慣にした。さらにわれわれのジャンド―の古い規則に従って、断固たる意見を伝えるあらゆる言葉や表現を使わないようにした。例えば、『確かに』『疑いもなく』等々である。その代わりに、『思うに』『私の理解するところでは』『これこれであるように想像する』『今は私にはそのように思われる』などを使うことにした。他の人が私には誤りであると思われる何か主張をした時でも、その人にぶしつけに反論したり、直ちにその発言の中にある不条理な点を指摘するという快感を禁じた。そして答える時には、ある場合、あるいは、状況においては、彼の意見が正しいかもしれないが、今の場合は、ある相違があると私には見える、あるいは思われる、等々ということを観察することからはじめた。すぐに、私のやり方をこのように変えることの利点がわかった。会話はもっと楽しく進行した。非常に謙虚に私が意見を提案すると、かえって容易に、反論されることなく受け入れられるようになった。私の方がたまたま正しい時には、彼らに間違った答えを断念し、私に同調するよういっそう容易に説得することができた。」(多少自尊心も残っていますが、率直な述懐だと思います)
「このやり方を私は自然の傾向に反して無理やり身につけたのだが、ついに非常に容易で習慣的なものになったので、おそらくこの過去五十年というもの誰も私が独断的ないい方をするのを聞いた人はなかった。そして、この習慣のおかげで(私の誠実な性質にもよるが)私は若いころから既に新しい制度を提案し、古い制度の変更を提案する時には、同胞市民の間で重要視され、また、議員になった時には、公の集会で大きな影響を与えることになった。というのは、私が話すのが下手で雄弁でなく、言葉を選ぶ時に大いに躊躇し、言葉も正しいとはいいがたいものだったが、次第に主張を通すようになったからである。」
「実際、おそらく、自尊心ほどわれわれの自然の情熱のうちで抑えることが困難なものはない。何とか可能な限り、それを嫌悪し、打ち負かし、息の根を止め、克服しても、まだ生き残っており、時折、現れ、姿を見せるであろう。おそらく、この自伝の中にも見られることになるだろう。完全に克服したと考えることができたとしても、その時にはおそらく私は自分の謙虚さを誇ることになるからである。」(B・フランクリン)
躓きの多い人生で、連れ合いから恨み言を言われ続けている毎日です。毒気が尋常でないフグの肝のような性質の自分で、毒気を抜くにはこのような思想の水を浴びせ続けなければなりません。さて、どれくらい水を浴び続けば毒気が抜けるのでしょうか…?滝に打たれ続ける日々は終わりませんなあ。