御堂筋税理士法人創業者ブログ

鈴木大拙師の『仏教の大意』のまとめの続きである。
昨日の「大智」につづき、今日は「大悲」である。

仏教という大建築を載せている二つの大支柱がある、一を般若または大智といい、
いま一つを大悲または大慈といいます。
智は悲から出るし、悲は智から出ます。
元来は一つ物であります。これを人格性といってもよいと思います。
霊性的自覚の上に現われるものであるから、これを神格と見てもよい。
これを不可思議身といいます。この不可思議身が仏教という殿堂の奥に据えられているのです。

この意味を十分に飲み込んで始めて仏教がわかるのですが、
それには華厳哲学を知る必要があります。
『華厳経』に盛られてある思想は、
実に東洋―インド・シナ・日本にて発展し温存せられてあるものの最高潮です。
もし日本が何か世界宗教思想の上に貢献すべきものを持っているとすれば、
それは華厳の教説に外ならないのです。

華厳思想を了解するには、いくつかの基礎用語というべきものを知らなくてはならない。
その二つを挙げると、一は事、今一つは理です。
事は、「個」・「特殊」・「具体」・「原子」などの義です。
理は、「全」・「一般」・「抽象」・「原理」などの義です。
事は分別・差別ということ、理は無分別・平等などです。
般若経典では、事は色に、理は空に相応します。

理と事と、これを神と人、または仏と衆生とにしてみると
両者は互いに相容れぬと考えるのが宗教学者一般の見解です。
しかし華厳ではこれを円融無礙(えんゆうむげ)するといいます。
理即事、事即理というのです。

大悲の用を伝える語彙、時間の念を入れた文字に「同時頓起」というのがあります。
「同時」は空間と時間とが回互交差するぜったいの一点を示唆し、
「頓起」は非連続の連続の義に外ならないのです。

また、能は能動、所は受動です。
華厳ではこの両個の働きを即能即所といって一つのものとする。

これらを皆一つにまとめて見て、華厳の事事無礙法界観と名づけるのであります。
インドで始めて成立した霊性的直覚が、漢民族の中で上述の如き体系的なものとなり、
それが日本に来て今日までも伝承せられているのみならず、
また実際の宗教となってあまねく強化の效績をあげているのです。

唐時代、賢首大師、法蔵という仏教者がいた。
この人によって華厳哲学が完成せられた。
則天武后のために、金獅子の喩えで、
華厳思想をわかり易く解説した小冊子が今なお伝えられている。
金には、自性はなく、芸術家の手にわたると金獅子という形相になる。
獅子という形相には実体がない、総てが金である。
獅子のはたらくのは無明を表わし、金の実体性は真性を表わす。

上来の所述は、いずれも菩提を成ぜんためである。
菩提は覚でありまた道である。
獅子に対して獅子の性の本来寂滅であることを覚り、
諸諸の取捨を離るることができれば、
その路は一切智(霊性的自覚)に到る道である。
また永遠の昔からもとより何らの迷いというもの傾倒というものはないのである。
一切種智を帯同していることがわかれば、それは覚である。

涅槃に入るというのは、金と獅子と共にその相を尽くして究竟じて玄寂であるということがわかり、
煩悩を生じて好醜の境に迷うことなく、
心安然として大海に波の湛える如くなると、忘想はすべて尽きてしまう、
そうして何等逼迫の感をもたなくなる、
すべての纒縛を超越し、すべての障礙の及ばないところに達して、
何等の苦をも抱かないということになる、これが入涅槃である。

華厳の世界観を会するには、直覚に二種あることを知るとよい。
一つは感性的・知性的直覚、いま一つは霊性的直覚です。
前者は人間一般の所見を対境としていますが、
後者に達しない限り、この環境に新しい意味を読むことができないのです。
一処に停滞せずにいつも流動性を失わずにいてしかも当処を離れず常に端然なのです。
霊性的直覚は生命そのものの中へ飛び込むから空間的・時間的です。
霊性はいつも今茲(ここ)から出発して、今茲に還ります。

華厳の事事無礙法界を動かしている力は大悲心に外ならぬのです。
この大悲心の故に、人間の個我はその限界を打破して他の多くの個我と徧容接入することができるのです。
悲心は光に耀く天体のようです。
そこから出て来る光明はすべての外の形体を照らしてそれを包みます。そうしてそれと一体になります。

宇宙のすべては神の心に映る、神の心が即ち宇宙である、
空間的に見て然かあるのみならず時間的に見てもまたそうなのです。
これが理事無礙の法界です。
大智が大悲で、大悲が大智である。そうしてそれが円環的に非一非異である、これが霊性的直覚の本質です。

仏教者は大悲心に人格的相好を与えて具体化するのが常であります。
阿弥陀如来というのはこの如き人格化の一つです。
阿弥陀とは無量光の義です。

いずれにしても阿弥陀如来は浄土系の人人に対しては
極めて現実的で具体性に充ちた存在であります。
弥陀に四十八の誓願がある、その中に、
「一切の衆生が正覚(霊性的自覚)を成ずるまでは自分は正覚を取らぬ」というのがある。
そうして彼は今現に自らの正覚を成じて極楽浄土を出現させているから、
吾等衆生は、彼を信じさえすれば必ず正覚を成ずるのだというのです。
しかし弥陀の正覚と衆生の正覚とは同時頓起で、それは既成の事実であるから、
吾等もすでに成仏しているのであるといわなくてはならぬ―こういうことになるのです。

二元的対象の世界にいて、分別的論理の圏外に出ることが出来ないと、
大悲の事事無礙法界に透徹することができない。
これが出来ないと苦悩の世界は日夜に我を圧迫してくるのです。
弥陀の誓願は華厳の法界を此土に現前せんとするのです。
そうして弥陀は吾等の一人一人に外ならぬのです。
事事無礙の法界を打して一丸すれば弥陀となる、
弥陀の大悲が分裂して個個事事の真珠となれば、吾等衆生もまた一一に浄土の荘厳であるのです。

人間生活の基底が感性的・知性的分別の世界であるというなら、
これ以外へ出る必要がどこにあるかということになろう。
しかし人間には、消極的内面的に、意識の底から出て来る、名状すべからざる苦悩が感じられる。
これは一種の「誘惑」でもあり、また一種の「強迫」でもあるのです。
相対の世界を破るのは絶対の境地へ導き込まれんとするのです。
またこれを聞かないとその身の存在そのものが危ういぞというのは、
千仞の岸頭に追いつめられたのです。
娑婆を択ぶか、無分別の浄土を希うかの瀬戸際です。
これは単なる自己なるものの好き嫌いで定まるのではなくて、
只管(ひたすら)にやむを得ないということになるのです。

道徳や知性からは霊性的なものは出て来ません。
両者の隔たりは非連続性であるから、道徳から歩みを進めて霊性へ入り込むというわけには行きません。
合成ゴムや合成種は造られても桜の花は合成できない。
両者の間には絶対に乗り移ることの出来ぬものがある。
道徳と宗教の間にも、前者から後者への進行はあり得ない、
が、後者から前者へは流れ出ることが出来ます。
霊性的世界は、日に新たにして日に新たなりで、創造の源泉は滾滾として
昼夜を舎てずに溢れて出るのです。
相即相入の法界には春来りて草自ら青しと感じられるものがあります。
「日出而作、日入而息。鑿井而飲、耕田而食。帝力于我何有哉」(撃壌の歌)

事事無礙法界は為人度生の場所で、大悲の働きを見なくてはならないのです。
自利利他とも自覚覚他とも衆生無辺誓願度ともいうことがあって、仏教にはこれを菩薩道と申します。
この思想はユートピア的なるが故に、永遠の尽きざる大精進力があります。

菩薩の行動は、それ故に、無目的であるといってよい。
この点で、彼は自然界における他の存在と同じい、
動物的生活または植物的だともいえる。
自然的生活の中に超自然的な神性的なものが窺われるのです。
個己的事事生活の上には暗影が絶えず漾っているのですが、
それにも拘わらず、霊性的妙趣の横溢するのが感ぜられるのです。
これを神の純粋行為といいます。
「竹葉階を掃うて塵動かず、月は潭底を穿って水に痕なし」

阿弥陀はすでに無量劫の昔に正覚を成じた。
そうしてこのこの成正覚の条件として衆生の成正覚を提供しているのです。
もし弥陀の方ですでに成正覚の事実があれば、
人間もすでに成正覚しているものと考えなくてはならない、
果たしてそうだとすれば何もそれがために
せっせと求道だ何だといって騒ぐには及ばないと、―こういうふうに考えるのです。

しかし、もっと歩を進めて
弥陀が無量劫の昔に正覚を成じたというのは、
人間各自が霊性的直覚に入るときに感得または悟得せられる事実なのです。
自らにこの感得の事実のない間は、弥陀の成正覚云々は何等の意味も持ちえないのです。

阿弥陀の側では四十八願、衆生の側では不断の念仏(お祈り)と懺悔―
宗教の本質はこれで尽きているのです。
何となく不安の気分の取れない、このままの存在では満足できないものがある。
人間を超えた、そうして人間に最も関係の深密な何者かがなくてはならぬという感じ、
それに対するあこがれが、吾等の方にあるのです。
このあこがれ、この感じ、この悩みは、絶えず解決を迫っています。
阿弥陀が真実の意味で吾が身に関係してくるのは、この解決と同時なのです。

日本の仏教で弥陀の外に最も民衆的な菩薩として、観音があります。
観音は三十三の変形で人間に顕われてくるというのです。
主眼とするところは、観音は大慈大悲の権化とし
それが求められる所に応じて現われるということです。

吾等が世間的生活において何か不幸なことに出くわして大いに困っているとき、
一心に観音を念ずれば、彼は何かの形でその人の前に現われて、
それを窮境から救い出すというのです。

しかし特に観音の性格としているもは、無畏を施すことです。
人生の一喜一憂に対して今一次元の高処からこれを見下ろすというようなのが無畏です。
禍福の無窮に袢つれ合う中にいて、無畏の心をもつということは、
ただ消極的に恐怖の念がないということでなしに、不動の信心決定をしたものがあるということです。

この無畏は弥陀または観音の大悲心から人間に伝わってくるものであるから、
これを獲得したものにはまた大悲心の発露があるわけです。
大悲の流行は、人間の個己がもつ恐怖・疑惧・不安などの感情によって妨げられます。
個我が自らの築いた城郭を破砕しない限り、これから超越し能わぬのです。
「自分」という甲殻から飛び出るのが無畏で、それと同時に大悲と大信が得られます。

弥陀の誓願、念仏祈願の生活、為人度生の方便等はいずれも無目的的徒爾の行であるというべきか、
答えは「然り」でまた「否」です。
菩薩の大悲心なるものは、絶対で無限で無目的であるが、
それはただ抽象的に概念的に一般的にいわれるのではなくて、
一事一物の上に時間的に空間的に最も具体的に動くということであります。

日本の仏教では、禅は大智の面、浄土系は大悲の面を代表するといってよかろうと思います。
禅はややもすると羅漢の独善性、逃避性に傾かんとするが、
浄土系は菩薩と共に五濁の巷に彷徨するを厭わないのです。
衒学とか物知りとか慧敏とかいうことは、人間をして却って霊性的直覚から遠ざからしめるという事実は、
吾等のいずれも日常見聞するところです。
この世界を出ていて、しかもまた出ないという境地を「平常心」と申すこともあります。
これは禅者のよく使う言葉で、「平常心是道」です。

人間の集団的生活はまた法界の相を宿しています。
集団の中の一個事に何かの変化が生ずれば、
それは必ず余他の事事に影響を及ぼすにきまっています。
集団の構成単位は、自由と平等の二大原則によって支配せられなければなりません。
基盤というのは大悲心に外なりません。

我の在るところには必ず戦闘があります。
なぜかというに、我という甲殻の中に閉じ込められていて、
外界を知らないものには、いつも一種の猜疑・恐怖の念があります。
そうしてそれと同時に自分に対しては相当以上の評価をしようとする自惚れがあるものです。
「地に平和、天に栄光」と申します。
浄土の荘厳と同じくいずれも大悲心の発露に外なりません。
世界を救うものは、この大悲心なのです。
そうして大悲はまた大智でなくてはなりません。(完)

鈴木大拙師の『仏教の大意』を要約した。
大智と大悲(大慈)というふたつのテーマが中核だというのである。
それは禅と浄土の思想と実践に現われている。
いかがだろうか。

わたしなりに感じたことは、
世界の成り立ちと構成、その中での人間と人生について
西洋的理解の枠組みを、レンズをさらに引いてもうひとつ大きな枠組みからとらえるということである。
その新たなフレームワークは、世界の成り立ちと人間の存在意義や一生について捉えなおすかたちだ。
その中で、こころ落ち着く包み込んでくれるものがある。
それがわかったら、そのスタンスで生活し、考え、人をたすくるということに思えた。

この旅は、これから東洋的見方、日本思想を求めて
さらに思想家の渉猟を進めたいと思っている。
まあ、のんびりと、ピンときた人の書物をひもときながら・・・

コンサルティングに強い経営エンジン研究所&御堂筋税理士法人
大阪 小笠原でした。


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