御堂筋税理士法人創業者ブログ

昨日のつづきです。

鈴木大拙師の著書に、『仏教の大意(The essence of Buddhism)』
という薄い本(わずか126ページ、読みやすい)があります。
昭和天皇にご進講された講義をまとめなおしたものとのことです。
とてもわかりやすく仏教について、ひとつの見識を示してくださっておられます。

鈴木大拙は、宗教学者でその中核は禅の思想です。
それとともに浄土(親鸞)の思想をよく引き合いに出しておられます。

本の中から、すこし私たちが考えるヒントになるところを
ピックアップしてまとめてみたいと思います。
本では、『大智』と『大悲』の2つのことをお話されておられます。

人間という存在は、不思議なものです。
まず物質です、その中の生物です。そしてただ一つ意識と知性をもっています。
その不思議さの根源は、この意識と知性を持つ点にあります。
意識から、思想や科学が発達し発展したわけです。

でもなにもかもそれだけでは、問題が解決しません。
その問題の種は、生と死です。根源的不安です。

人間は、知的存在であるとともに、本来的に霊的存在です。
つまり生き物であり、さらに世界の構成要素のひとつの結晶でもあります。

この認識、大きな意味での世界のフレームワークが
この問題の認識と解決には必要です。

知性と霊性の統合、これが問題です。
これを解決できたら、生死の問題は超越できるわけです。
その一つの答えが具体的には禅にあるわけです。

禅とは、世界のフレームワークと自己の大きな悟りを得る行いです。
そのベースは仏教思想、とりわけ大乗の思想です。
それを超えたところに、とても明るい世界があるのでしょう。
そして永遠と今ここで全力で生きるということが統合されます。
その境地は、分析的思考の探究では到達しないのです。
非連続のある境涯に達しなければなりません。
禅の修行、師に導かれての参禅では、この豁然とした悟りがめざすところです。

生死の問題の解決には宗教的信仰の力が必要です。
以下、鈴木大拙のことばをたどりながら仏教の本意を見ていきましょう。

まず『大智』についてです。

吾等の世界は一つではなくて二つの世界だということです。
一つは感性と知性の世界、今一つは霊性の世界です。
人生の日々は矛盾で充ちているものです。
一旦気づき出すと、その解決に悩むものです。
何とかしてそこから離脱しようとします。
別の境界があるのではなかろうか
ここで霊性的世界の髣髴が窺われるようになるのです。

吾等の生活しているという相対的世界と、
その背後になるのとは、唯一不二の全を形成するものです。
二つの世界の一つは、分別と差別でできているのです。
これは合理性で支配されます。
今一つの世界は無分別と無差別の世界です。

差別の世界が本当の意義を持って来るのは無差別の光明に照破せられるときなのです。
これが会得せられるとき宗教的生活が始まるのです。
分析や分別の世界は我の一念で支配せられています。
そうして我の打殺せられない限りは平等無差別の世界に入ることは不可能です。
無差別界の消息を伝えんとするには、どうしても一遍は分別智と分袂しなければなりません。
般若の智慧の光明はかくして輝き出るのです。

宗教は、真っ裸になることを要求します。
畢竟ずるに、仏教の根本義は対象界を超越することです。
合理性で固めた頭脳の中へは、天啓は閃いて来ないのです。

相容れないものの自己同一―即ち分別の無分別という問題は、
すべて何かを考える人人のとって容易ならぬ問題であるが、
それと同時にこれほど根本的なものはないのです。
これが何らかの意味で解消すれば、その他は刃を迎えて解くことができる。
それで仏教者もこの解消に向かって全精神を傾倒して、独特の方式を編み出した。
そえを不可思議解脱というのです。智慧の眼を開くことです。
矛盾そのものの真中に飛び込むことです。

何とかして一たびは存在の根源底に飛び下りて親しくそこにいるものを覰破しない限り、
吾等の恐怖・懊悩などというものは取り除かれないのです。

人間苦は業に繋がれているということです。
自由・闘争・責任・苦悶・超越・解脱という順序で人間の人間たる所以が成立するのです。
いずれも業縛の自覚から発展するのでありますが、
これが実に人間の霊性的な所以であります。
業が人間の生命そのものだとすれば、
業を免がれるということは死するという義に他ならぬのです。
死んで生きなければならぬということ、業に繋がれていながらこれを離れること、
ここに人間の運命の不可思議があるのです。

業繋の自覚と離業の努力は祈りという形で意識せられる。
祈りはまた絶対矛盾である。
人間の力だけでは手の出しようもない。この時に心の底から湧いて出るのが祈りである。

吾等人間は常時重荷を背負っていて、しかもそれから釈放せられたいと願って止まないのです。
この止むに止まれないものが却って人間をして業を超越せしめるのです。
これは霊性裡の動きに外ならぬのです。
それで祈りは宗教生涯の真髄を構成するというのです。
いくら祈っても人間生活に何等の加うるものがないといえば、それまでのようですが、
その実祈りは人間性を構成している最強の要素を引き出すのです。
これで人間生活の展望が根源からひっくり返るのです。
今までの汚れた悪業がそのままで浄らかなものになるのです。

宗教経験は苦の経験であって、この経験の故に離苦が可能になるのです。
大慈大悲の心が動かなくてはなりません。この心が霊性です。
業苦の繋縛が解消するということは、それ故に、業を業とまともに認識すると同時に、
吾等存在の根源そのものはそれで縛られていないということを自覚することです。

人間を幾何学でいう点に喩えることができる。
この点に三条の線が集注またはそこで交差していると見てよい。
この三条の線とは一つを物理的・自然的といい、
今一つを知性的・道徳的といい、
最後の一つを霊性的ということにしておきます。

霊性線への飛び移りは命がけの行為ですが、
これをやらない限り悩みは抜けないのです。
第三線の特異性は絶対的受動性。
この点で第三線と第一線が円融するのです。

霊性は知性の中に動くもの
そうしてこの動きを認覚するのが知性を超越するとの意味なのです。
因果が来れば因果を迎え入れて心緒晏然です。
死ぬときに死にます、生まれるときに生まれます。
生まれて喜ばず、死んで悲しまず、晏然としています。
この人は哲学者でもなければ、科学者でもない、
それ故、何の理屈もいわずに、そのまま何もかも受け入れています。
これが無分別の分別、分別の無分別という即非の論理を
生活そのものの上に認覚した人の境地です。

仏教を了解せんとするには、無分別の分別という「不可思議」に
一遍徹底しないといけないのです。
仏教者は、即非の論理を存在の根本義と致します。
「人間の人間たる威厳は思想だ」とパスカルはいうが、
この思想とは意識または自覚である、
そうしてそれはただの知性的自覚ではなくて霊性的自覚でなければならぬのです。
人間生存の意義はここにあるのです。

時間から空間から見れば、人間はいかにもかよわいものです。
人間が宇宙より大だというのはこの故です。
が、霊性の上からすると、人間には、従って宇宙には、測り知られぬ尊厳があります。
「天上天下唯我独尊」と絶叫せられるのです。
そうしてこの一大肯定に達するの途は、
あらゆる人間の悩み―知性的に道徳的に多くの悩みを経過することによって
初めて到り得らるるところのものです。

続く・・・

コンサルティングに強い経営エンジン研究所&御堂筋税理士法人
大阪 小笠原 でした。

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