御堂筋税理士法人創業者ブログ

昨日の土曜日、

税理士試験が終わって

恒例の就職フェアがありました。

 

弊社では代表の才木が指揮を執り、

若手のスタッフが一致協力して

求人にあたってくれました。

 

毎年きびしくなるわが業界の

求人事情ですが、おかげさまで、

なんとか内定者を確保したとのこと。

よかったです。。

 

こうした場で、ピカピカの新卒者で

採用予定数を確保できれば

申し分ないわけですが、

なかなかそうはいきません。

 

それに、弊社の考え方やあり方に

共鳴してくれる人でなければ

仮に入ってもらったとしても

長続きしないことが

体験的にわかってきたので

あまりむりをしないことにしています。

 

さらに、弊社では、

新たなご依頼に対応していくためにも

経験者の即戦力が求められており

新卒・即戦力と

バランスのとれた補強が必要なのです。

 

あとは、紹介での入社候補者が
幾人かいるので

それに期待したいところで、
なんとか必要人数を確保したい

と思っています。

 

弊社でも、採用は多様化しています。

ここ数年の入社者の機縁をみても

・メンバーの子弟

・メンバーの友人や知己

・人さまからのご紹介

・弊社への入社希望

・エージェントの紹介

・長期インターンからの入社など

実にさまざまで、

リクルート・チャネルを多く持つことが

大事だと思い知らされます。

 

皆さんも、

どなたかいい人がいらっしゃったら

ぜひ、ご紹介くださーい!!

 

毎年きびしくなる求人活動

今から、半世紀前、

かのドラッカーさんが

人材採用はマーケティングの課題だと

いみじくもおっしゃったことが

今、現実となってのしかかっています。

この課題の究極の解決には

会社のブランド化が必要になります。

 

それにしても、就職活動のあり方も

わたし達の頃とは、

ずいぶん様変わりしてきたものです。

 

わたしが就職活動をしたのは、

今から44年前、1975年の秋でした。

 

当時、就職活動の解禁日は9月1日。

アマゴ釣りやカニの解禁みたいなもので

考えてみれば、変な風習ですねえ。

この制度は日本独特らしいです。

 

この年とその翌年は

未曽有の就職氷河期でした。

上場企業の中でも

採用を控えたり、

中には、採用のない会社もありました。

 

わたしは生粋の大阪人で

東京なぞに行こうという気は

さらさらありませんでした。

(というか、そんな大志はなかった

かんたんにいうと

びびり屋で内弁慶なのですね)

 

また、結婚を約束した相手がいて

その人が公務員志望だったので

そういうこころざしだったわけです。

 

さて、当時はまだ

大阪に本社のある大企業も

今より相当多くありました。

 

わたしは上でお話ししたように

精神的にひ弱なので

きびしい活躍が求められるような会社では

自分がもたないということが

わかっていました。

 

なので、一応にぎやかしには

銀行や商社も訪問しましたが

本命としては、大阪に本社のある

地味なメーカーを回わりました。

 

訪問した会社は、下記のとおりでした。

久保田鉄工、サントリー、近鉄、

大阪ガス、関西電力だったかなあ。

 

さだかには覚えていませんが、

ひょっとすると、

住友化学や住友金属、武田薬品なども

訪れたかもしれません。

 

それ以外に、お話ししたように

三和銀行、住友銀行、住友商事などにも、

ひやかしで面接に行きました。

 

応募の動機は極めて簡単でした。

たとえば、

近鉄は、家が上本町駅(本社)の

真ん前にあったからですし、

三和銀行は、実家が

ずっと取引していたからでしだ。

 

まあ、たいして綿密な検討はしていません。

それに実のところ
いずれは税理士になりたいと
思っていましたので、
あまり気合も

入っていなかったのでしょう。

ゼミの先生など、勉強嫌いのわたしに

大学院を受けたら

などと進めたくらいです。

 

そんな中で、久保田鉄工という会社が

わたしの中で大きく浮上してきました。

 

(なつかしいロゴ)

 

久保田鉄工は

当時のあの大不況の状況下

記録的な利益を出していて

確か上場企業の中では

ベスト10に入っていました。

かてて加えて、財務内容がよかった。

 

さてこの会社に、おなじゼミ

(わずか同級生7人という小規模)

の友人が、就職活動時期に

数ヶ月、東欧を旅行するというので、

教授の肝いりで

さっさと入社が内定していました。

そのせいか、クボタの名前が

わたしの脳裏に残っていたのです。

 

クボタに対するわたしの印象は

農機をつくっている会社だ

ということくらいしか知らない、

きわめて地味なものでした。

 

けれど、子供のときからテレビで

毎日「国づくりから、米作りまで…」という

コマーシャル・ソングが流れていて

ほとんどだれでもそのメロディは

耳にこびりついていました。

 

さらに、農機のシェアが40%、

鉄管にいたっては80%ありました。

地味だけれど、ニッチなところで

マーケティングもうまく

おもしろい会社だなあと思いました。

 

それにクボタには

小田原大造という名物社長が

ながらく君臨していて

大阪商工会議所の会頭も

されておられましたから

その知名度もプラスに働きました。

(勲一等であられた)

 

社名と社風はとびきりダサいが

まあええかあ。

 

さて、会社訪問では

簡単な面接と

算数と国語のテストをさせられました。

 

後日、入社が決まってから

人事課長からお聞きしたのですが、

中学の実力テストのような

そのテストの結果もましで

気に入ってもらえたようでした。

 

おふざけで受けた

銀行や商社などは

もちろん、なしのつぶてでした。

 

そうこうしているうちに

重役面接があるということで

人事担当常務さんの面接を受けました。

 

どんなことを訊かれたのか

まったく覚えていませんが、

生来が商売人のせがれで

大人との対応は自分でいうのも変ですが

そつがなく、面接となると、

異様にええ子ぶってしまうわたしの性。

それが功を奏したようで

内定のお電話をいただきました。

 

当時、入りたいなあと思っていたのは

近鉄

(なにしろ近所で、私が鉄ちゃんだから)、

大阪ガス

(安定してそうだし、大阪勤務確定やろう)

でした。

 

うっかりそういうと、電話の相手から、

「それは君、内定を受けたら

ほかは断ってもらわなければならぬ」

と言われてしまいました。

 

内定をいただいたことが誇らしく、

すなおな私は、すぐに

両社にお電話させていただき

辞退申し上げたしだいでした。

 

まあ、その程度の思い入れですから、

簡単に宗旨替えです。

あの江川投手や菅野投手のような

一徹さはまったくありません。

 

結局、クボタには

先のフライング内定の彼と

体育会でならしたもうひとりと

わたしの、なんと3人が

ひとつのゼミから入るという

前代未聞の話しと相成りました。

 

同期生は72人

前後の年次に比べると

とても少ない同期生でしたが、

世間の大不況の余慶を受けて

東大、京大をはじめ

旧帝大か、早慶など有名私大出身者が

大半を占めていました。

いわく『花の51年組』です。

 

後日談ですが、

そんな義理のある会社でしたが

わずか4年と半年で辞めてしまいました。

 

やはり、初心忘れがたしの思いと、

金魚鉢のような工場づとめに

長期的展望のないわたしは

耐え切れず不義理をしてしまいました。

 

しかし、わずかな期間でしたが、

工場勤め、勤労業務、

生産管理や資材業務など

実務も学ばせていただいたし、

なにより大企業の様子を体験できたことは、

その後の仕事で大変に役立っています。

感謝してもしきれない思いです。

 

わたしが在籍していた頃は、業績も

売上は5,000億に向けて難儀していて、

利益も万年200億、

給料も平々凡々なものでした。

 

今や、小型農機分野での

グローバルニッチNo1戦略を武器に

売上高2兆、利益2,000億となり、

社員の給与水準も格段よくなりました。

 

いまも、ご縁をいただいて

いくつかの子会社の税務を

担当させていただいていて

その社風の暖かさは身に染みています。

今でも、わたしは、勝手に

クボタ一家の一員のつもりでいます。

 

もう同期生72人はすでに社を去りました。

しかし、同期生のうちで、

多く役員に名を連ねました。

わたしの誇りとするところでもあります。

 

ちなみに、くだんの友人は

社長の最有力候補でしたが、

時が運命に味方しませんでした。

 

わたしのクボタでの最終経歴は

『職員1級』-つまり究極のペーペーです。

同期の中では2番目に退社、

いちばん出世しませんでした。

 

当時の採用係長さんで、

人事担当の専務まで務められた

大学の大先輩と、今でも、酒席を

ご一緒させていただくことがあります。

先輩が酔いに任せて

「君がおったら、社長になってたやろう」

などと、

奇想天外なことをいわれ、

この会社に負債こそあれ

なにひとつ貢献度のない私に

最高の魔法のことばをくださいました。

 

光陰矢のごとし、

あれから、はや44年が経ちました。

 

冒頭記したように

未曽有の求人難のわが業界にあって

なんとか前途有望な人材を確保できました。

 

彼には、わが社で

腕を磨いてもらい、お客様のお役に立ち、

しっかりと銭を稼げる人材に

育ってほしいと願っています。

 

そのために、わたし達の組織は

森信三先生の『教育の神髄』

のお言葉を守り

最大限のエネルギーをかけて

育てていく所存です。

 

経営コンサルティングと

会計事務所の融合

 

組織デザイン研究所&

御堂筋税理士法人

 

小笠原 でした。


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