吉田松陰先生に導かれて孟子を読む
2014.02.14
ブログ
吉田松陰が獄中で
孟子を講義をした記録が
『講孟余話』である。
事務所で開いている
経営思想読書会の必要があって
あらためて開いてみた。
今回は、参加者の方々への
便宜をおはかりするために
自分なりにレジュメを作ってみた。
この書の内容は、
松陰先生が孟子で
重要だと思われたところを抜粋され
それについて解説をし
意見を述べられる形式で進められる。
私なりに
孟子の元の部分を書き出し
日本語訳をつけ
松陰先生が述べる
そのエッセンスを書きつづった。
いままでのさらりと読んだのでは
ほとんど記憶に残らない
孟子の内容の意味合いやその重要性を
あらためて学ぶことができ
老学としてはとてもありがたかった。
ひとつだけ、参考になるところを
ご紹介しておきたいと思う。
松陰先生がびびっときたところ
『孟子曰[いわ]く、
其の心を盡[つ]くす者は
其の性を知るなり。
其[そ]の性を知れば
則[すなわ]ち天を知る。』
(尽心章句上篇首章)本のP106
エッセンス
心を尽くすとは、
心いっぱいのことを行ない尽くすことだ。
その際いっぱいとはどれくらいなのか
知らなければならないわけだから、
そこで性すなわち人間性を
知ることが必要になってくる。
それがわかったとき
人性の中に天の性(善)が
備わっていることがわかるだろう。
だから精一杯のことができる。
そしてそうだとすれば
天のこともわが領分外のことではない。
なんとも壮大で痛快ではないか。
原文読み下し文
「孟子曰く、
其の心を盡くす者は其の性を知るなり。
其の性を知れば則ち天を知る。
其の心を存し、其の性を養うは、
天に事る所以なり。
殀壽貳[うたが]わず、
身を脩めて以て之を俟つは、
命を立つる所以なり、と。」
和訳
孟子は言う。
「自らの心を伸ばし尽くす者は、
自らの本性を知る者だ。
自らの本性を知る者は、
天から降された意味を知る者だ。
よき心を保ち、本性を養うことこそ、
天に仕える道である。
寿命の長い短いなど気にするな。
ひたすら自分自身を修めて
命尽きるのを待て。
それが、天命を損なわずに
まっとうするということなのだ。」
松陰先生がびびっときたところ
『殀壽[ようじゅ]貳[うたが]わず、
身を脩めて以て之を俟[ま]つは、
命[めい]を立つる所以[ゆえん]なり』
(尽心章句上篇首章)本のP109
エッセンス
自分の心力の及ぶ限りを尽くし、
その先のことは天命に任せる。
それは若いと年老いたと関係がない。
世の中という宿屋に泊ったら、
恩を返して宿代を払うのが当然である。
どうしても惜しいので
もうひとつご紹介
松陰先生がびびっときたところ
『君の臣を視ること
手足の如くなるときは、
則ち臣君を視ること
腹心の如し。
君の臣を視ること
犬馬の如くなるときは、
則ち臣君を視ること
國人の如し。
君の臣を視ること
土芥の如くなるときは、
則ち臣君を視ること
寇讎[こうしゅう]の如し、と。』
(離婁章句下篇第三章)本のP53
エッセンス
上が臣下をそう見なすように、
臣下はそうなる。
君たる者の守るべき道を説く。
和訳
孟子が斉の宣王に言った。
「そもそも君主が家臣を
己の手足のように大事に扱えば、
家臣は君主を己の腹や心のように最重視します。
一方君主が家臣を
まるで犬か馬を飼っている程度に扱えば、
家臣は君主をその辺の国民と
同じ程度にしか考えません。
さらに君主が家臣を
土くれやゴミのようにひどい扱いをすれば、
家臣は君主を仇か敵のようにみなすのです。」
孟子の魅力は
なんといっても性善説に基づくネアカさだ。
年が行くと、
きびしい教えもいいが
こちらの方が心情的になつく。
吉田松陰先生の
春風暖草のお人柄と
至誠と義理、愛国意識に基づいた
裂ぱくの気迫の根源に触れた気がした。
背筋がまた伸びた気がした。
コンサルティングに強い
御堂筋税理士法人&経営エンジン研究所
大阪 税理士 小笠原 でした。