宗教とは?信仰とは?にきちんと向き合う
2020.11.09
読書と修養
私は多くの日本人と同じように無宗教的人間に分類されるでしょう。日本人だから、神道的雰囲気もわかる気がしますし、仏教も、儒教もなんとなく。キリスト教のこともいろいろな書物で学びましたし。
ですが、宗教とはなにか?信仰とはなにか?についてきちんと考えたことはない気がします。はずかしい話ですが、今、マインドフルネス(我流です)をし始めていて、その中で祈りを取り入れてまして、そんなこともあって、ウィリアム・ジェームズの『宗教的経験の諸相』というタイトルの本がアンテナに引っ掛かりました。
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ウィリアム・ジェームズは、19世紀後半から20世紀初めに活躍した、アメリカを代表する心理学者・哲学者の一人です。チャールズ・サンダース・パースからジョン・デューイにいたる、プラグマティズムの思想家の系列に属す人です。
これまでに、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』、ニーチェの『ツァラツストラはかく語りき』、パスカルの『パンセ』、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などを通じて、キリスト教の功罪についてあれこれ考えることはありましたが、宗教と信仰そのものについて教えてもらうのは初めてです。
この本は、ウィリアム・ジェームズが、アメリカ人としてはじめて、スコットランドに招かれて、有識者の方々を相手に連続講演を行なったときの講義録をまとめたものです。そのためにけっこうよみやすく書かれています。
全体の流れは、主題の範囲→見えない者の実在→健全な心の宗教→病める魂→分裂した自己とその統合の過程→回心→聖徳とその価値→神秘主義→哲学→その他の特徴→結論→後記、となっています。
なかなか用意周到な構成と展開です。宗教の成り立ちや必要性、宗教心、信仰について、その発生原因、きっかけ、効果について、生物学的な心理学を切り開いた著者ならではの、心理学的アプローチと、専門家ならではの信じられないほどの膨大な引用によって、話が進められていきます。
わたしは、いつもの流儀で、気に入ったフレーズにマーカーを引き、大事だなと思ったページには付箋を貼り、適当に欄外に赤ペンで書き込みをした上で、ワードを取り出し、それらをまとめていきましたが、まとめだけで8ページになりました。
というわけで、結論にいたるまでの中にも、紹介したいところはたくさんあるのですが、そうすると大変長くなりますので、結論のところで気に入ったところをご紹介しておきます。
「宗教が人生にもつ意義、宗教的生活の信念とは、
1 目に見える世界は、より霊的な宇宙の部分であって、この宇宙からの世界はその主要な意義を得る。
2 このより高い宇宙との合一あるいは調和的関係が、私たちの真の目的である。
3 祈り、あるいは、より高い宇宙の霊―それが『神』であろうと『法則』であろうとーより内的な交わりは、現実的に業(わざ)の行なわれる方法であり、それによって霊的エネルギーが減少の世界のなかへ流れ込み、現象世界に心理的あるいは物質的な効果が生み出される。
宗教はまた次のような心理的な特徴を含んでいる。
4 或る新しい刺激が、何か贈り物のように、生活に付加され、それが抒情的な感激か、それとも真剣さおよび英雄主義への訴えかのいずれかの形を取る。
5 安全だという確信、平安への気持ちが生じ、他者との関係において、愛情が優れて力強くなってくる。」
「二度生まれ型の人(苦悩・挫折・絶望などの体験から信仰に帰依した人)の人生観のほうがー人生問題の解決に対して悪の要素をより多く重要視しているのでー一度生まれ型の人(無邪気で神様に純真にあこがれている人)の人生観よりもいっそう広く、いっそう完全であることは、事実である。」
宗教と科学の関係について、
内的 経験→宗教
外的 科学
「私たち個人の運命につながる特殊な問題がどう答えられようとも、そのような問題こそほんとうの問題であると認めて、問題が開発する思想領域のなかで生きることによってのみ、私たちは深い人間になるのだ。…このような生き方をすることが、宗教的であることなのである。」
「個性は感情に基づいている。そして感情の奥底、すなわち性格のより暗くより盲目的な層こそ、私たちが真の事実の生成過程をとらえ、事象がどのようにして起こるか、業(わざ)が現実的にどうしてなされるかを直接に近くする、世界における唯一の場所なのである。」
「それゆえに、私たちは、個人の運命を問題とし、したがって私たちの知る唯一の絶対的実在とつねに接触している宗教が、必然的に人間の歴史のなかで永久的な役割を演ぜざるをえないということに、同意しなくてはならない。」
「すべての宗教にその核心として含まれ、すべての宗教的な人が同意できると期待できそうな最小限度のものに還元しよう。…思想と感情とはどちらも、人間の態度の決定者である。…宗教がそのもっとも主要な仕事を営んでいる短絡は、この二つの要素の間にある。…次の問題は、宗教的感情の特性を述べることである。その結果は、カントが『強壮な』感情と呼んでいるものである。…人がそれによって生きるところの力の部類である。…それらが行動や忍耐力に異常な影響を与える点から見て、私たちはそれらを人類のもっとも重要な生物学的機能の一つに算えずにはいられない。…神ではなくて生活が、より多くの生命、より大きい、より豊かな、より満足を与えてくれる生命が、結局は、宗教の目的なのだ。…生命に対する愛こそが宗教の推進力なのだ。」
宗教がもつ共通の核心
1 不安感 私たちはどこか狂ったところがあるということ
2 その解決 より高い力と正しく結びつくことによって、この苦しみから私たちが救い出されているという感じ
→ 分裂した自己とその葛藤
「神秘的活動が最高潮に達すると、私たちの意識は、自己以上であると同時に自己と同一であるある存在の感じに支配されているような気がする。」
「宗教的経験の内容の客観的な『真理』とは、より以上とのものとのあの『合一』である。」
意識的生活の潜在意識的な連続
「意識的人格は救いの経験をもたらしてくれるより広大な自己と連続しているという事実こそ、宗教的経験に関する限り、文字通り客観的に真である。…私たちがこの領域と交わるとき、現実的に業が私たちの有限な人格の上に行なわれる。私たちは新しい人間に変わるからであり、そして、私たちの再生的変化に続いて、その結果が、自然的世界における行為の上にもあらわれるからである。他の実在のなかに効果を生み出すものは、それ自身一つの実在と呼ばなければならない。」
「神は、キリスト教信者にとっては、最高の実在をあらわすすごく自然な呼び名である。『神』とは、交わりの媒体であるとともに、原因となる発動者でもある。」
「私たち自身の限界外の自己のこちら側から出発して、その向こう側の限界において私たちが交わるにいたる神が、絶対的な世界支配者でなければならないとするのは、もちろんはなはだ著しい過剰信仰である。私たちはたいていなんらかの仕方で私たちの哲学の上に過剰信仰を接ぎ木しているつもりであるが、実は哲学自身こそ、この進行の上に接ぎ木されているのである。…このプラグマティックな宗教観は、いっそう深い見方だと信じている。…洗練された超自然主義は、不変救済論的な自然主義である。…宗教とは、人類の大多数にとっては、不滅性を意味し、それ以外のなにものをも意味しない。…私たちが私たち自身よりも大きい或るものとの合一を経験しうること、そして、この合一のなかに私たちの最大の平安を見いだしうるということである。」
「一元論的な見方を支持する人々は、万物を含む唯一神が存在しないかぎり、私たちの安全の保障はどこまでも不完全であると言うであろう。…見込みの存在が、諦めを基調とする生活と、希望を基調とする生活との差異を作るのである。」
さて、こうしたジェームズがあらわした結論から、わたしが受け止めたことは、次のようにまとめられます。
豊かな生活(これが効果=プラグマティズム的思考)
↑
科学を超える宗教→永遠と安心
↑
神との合一←祈り ⇔ 意識←無意識
つまり、その要約は、私がフェイスブックでこの本について紹介したところの「宗教とは、意識を無意識に結びつける祈りで神との合一を企て、科学を超えて永遠と安心を得、豊かな生活をめざすもの」ということになります。
なるほどなあと、個人的には納得できました😊OK