御堂筋税理士法人創業者ブログ

大阪のコンサルティング税理士 小笠原 です。

今日は、月に一度の経営価値観講座の日でした。
皆さん、お忙しいところを遠くからお集まりいただきました。
ほんとうにそのご熱心さには頭がさがります。

そうであるなら、水先案内人のわたしめも
精一杯、みなさんの理解のお手伝いをしなければ。

ということで、テキストの
森信三先生の『修身教授録』の
第12講から22講までをまとめました。

なおこれは、メルマガでも配信しておりますので
ご参考にしてください。

■経営の価値観講座 補助資料
 「修身教授録のまとめ」(カッコ書きは小笠原の印象)

□第12講 捨欲即大欲 

 欲を捨てるとは、自己満足を破って、
 多くの人々を救う大欲に転じることである。

 欲を捨てるとはどういう意味かをはっきりしておかないと、
 道徳や修養の真の中味はわからない。
 
 真の道徳修養とは、意気地無しの人間になることではなく、
 もっともたくましい人間になることである。

 言葉の真相は、自分の体をそれにぶつけてみないことには、
 真の意味はわからない。

 真に欲を捨てることは、自己を確立することであり、
 万民の心の中を伺い知ろうという、大欲に転ずること。

 死後に名を残すとは、世を思う思いの深さが、
 名という形をかぶって死後に生き残るのである。

□第13講 使命の道 

 人生の価値は、使命の自覚で決まり、
 その自覚が民族生命の流れに合流する。

 国の使命について、それが我々自身の問題と
 結びついてくるのでなければ、 自分自身の問題とは言えない。

 逆に、自分の使命の問題も、根本において、
 いかに微々たりとは言え、
 自分一箇の魂の地上における六、七十年の生涯が、
 なんらかの意味で、
 民族の使命に対し一つの捨石的な意味をもつようでなければならぬ。

 物事というものは、真実には、その事柄の意義を自覚する以上には、
 その価値を実現することはできない。

 すべても物事は、そのものの意味を認めることの深さに応じて、
 その価値は実現せられる。

 生涯を通じて実現する価値は、自分の使命の意義を、
 いかほど深く自覚して生きるか否かに比例する。

 人生の意義に目覚めて、自分の生涯の生を確立することこそ、
 真の意味における『立志』という。

 人生の意義は、青少年の時における
 その人の志の立て方のいかんに比例する。

 古来わが国の教育で『立志』の問題が
 最も重視せられたゆえんであり、
 その意義は立志の一事に極まる。
 (遅すぎる、もっと早く分ったら・・・でも今からがスタート) 

 真に志が立ったら、自分に必要な一切の知識は、
 自ら求めて止まなくなる。

 したがって問題は、個人としては国家民族の使命に対し、
 自分がどうこれを分担するかを自覚することである。

 このような自覚が明確であるほどに、
 その人の生涯は民族生命の大流に合流するのである。

□第14講 真実の生活 

 人生は上に登るだけでなく、
 ひとつの分野で深く掘り下げることで価値が生まれる。

 人間というものは、普通には、すべて
 現在より一段上の地位に上がりたいと思うものである。

 考えるべきことは、こうした態度が
 はたして人間の真実の生き方であるかどうかという点である。

 向上心は決して悪いことではないが、
 すべての人がこう考えたときに、世の中はどうなるかである。

 大切なことは、単に人生の梯子段を一段でも上るのではなく、
 どこか一ヶ所に踏みとどまり、己が力の限りハンマーをふるって、
 現実の人生そのものの中に埋もれている無量の鉱石を、
 発掘することでなくてはならぬ。

 人生の岩壁に向かいハンマーをふるって、行動を切り開くのは、
 梯子段を登るのとは比較にならない難事業であり、
 そこには自分の生涯を賭けて掘り抜かずんば已まぬという、
 絶大な決心が必要とする。

 真にその覚悟ができて、坑道発掘のハンマーをふるいはじめたら、
 そこにすばらしい道が開ける。
 (先生の忸怩たる思い、生徒に対する激励の心情が窺われ、
 しみじみする)

□第15講 諸君らの将来 

 将来ひとかどの人物として活躍したいなら、
 今から読書を重ねていく必要がある。
 
 人間というものは、常に前途に思いを巡らしているようで
 なければならない。
 
 将来、しだいに内容的な忙しさが加わると共に、
 学問知識は、いよいよ広く深くなることが要求せられてくる。
 
 すべて読書研究というものは、必要が起こってから始めたのでは、
 すでに手遅れである。
 
 真の読書というものは、自己の内心の已むにやまれぬ要求から
 であって、初めて価値を十分に吸収しうる。
 
 将来ひとかどの人物になって活躍しようと思うなら、
 遠大な志を立てて、大いに書物を読まねばならぬ。
 
 というのも、ひとりの人間のもつ世界の広さ深さは、
 その人の読書の広さ深さに比例するからである。
 
 何らかの事にあたって処理する場合、
 内心の要求に駆られて読んだ書物の中に解決のヒントがでてくる。
 
 遠く将来を展望して、今後十から二十年間に、
 当代一流から古典までも読破する一大決心をする必要がある。
 (わかりました)

□第16講 一道をひらく者(1) 

 教育者には、国家の将来への自分と生徒の貢献を
 視野に独自の任務がある。
 
 真の教育者は、少なくとも二、三十年先の国家のことを、
 常にその眼中に思い浮かべていなくてはならぬ。
 (目からうろこ、経営者はかく社員を思って育てなければならない)
 
 自己と生徒の将来の貢献という身近な二つの窓を通して、
 常に将来について考えることが大切である。
 
 自分という小さな一つの石でも、国家民族に対して、
 何人にも任せられない唯一独特の任務と使命がある。
 
 こうした任務の存することを自覚するにいたって、
 初めてわれわれの真の人生は始まるわけである。

□第17講 一道をひらく者(2) 
 
 職業で得たものが同じ仕事の人々の灯りとなるくらいの存在になれ。
 
 一道をひらくということは、自身救われると共に、
 同じ道をたどる人々に行く手を照らす意味がなければならぬ。
 
 職業で会得したものが同じ仕事をしている多くの人々に
 激励となるに至り、
 真に国家社会に尽くす者といえる。
 (まだまだ自分が姑息であることが思い知らされる)
 
 肉体すでに没して、再びその面貌にまみゆる能わざるにいたり、
 その偉容はいよいよその大を加えてくる。

 その人が偉大なる実践家として、
 たとえ一字の文字をも書き残して置かなかったとしても、
 その人の教えを受けた門弟子たちは、
 生前その心に刻まれた不滅の言葉を、自分一人の胸中に
 秘めておくに忍びず、
 またこれを単に自分ら一部同門の人々の間に秘しておくに忍びず、
 これを結集して、もって天下にその教訓の偉大さを
 宣布せじにはいられないことでありましょう。
 (孔子、ブッダ、ソクラテス、キリストもそうである)

□第18講 人を植える道  

 教育は木を植えるごとき大行、たくましい意力、
 修業への邁進が必要である。
 (ほんとうに長期の取組みである)

 人間を教育するということは、現実の大野に、
  一人びとりの人間を植えこんでいく大行である。
 
 教育は、人材を植えつけることで現実世界を改革しようとする、
 たくましい意力を根本動力とせねばならぬ。
 
 偉大な教師の存在で、数十年も後に、
 そこに根本からの立ち直りと新たな民風が
 おこるのでなければならぬ。
 
 種をまき苗を育てた教育者この世になく、
 しかも精神は人々の心深く根をおろし、改革の根本動力として働く。
 
 教育の真の目標がかく分ったならば、
 猛然とその大任にたえるべく、
 修行の一道に驀進せずにはいられまい。
 
 種子さえまけば、良木になるわけでなく、
 大切なのは、卒業後の指導いかんにあるというべき。
 
 その根本的な指導は、有志による読書会を設けることである。
 (会社でも同じ)
 
 ※補足
 真に卓越せる師匠は、愛する弟子には、
 もっとも厳しく対するというを得たり。
 これ対者をして道を伝うるに耐えしめんがためなり。
 
□第19章 松陰先生の片鱗 

 生徒を共に道を歩む者だという根本態度が確立すれば、
 至柔至剛で教育できる。

 本当に偉い方というものは、みだりに声を荒げて、
 生徒や門弟を叱られるものではない。

 大声で生徒を叱らなければならぬということは、
 それ自身、その人の貫禄の足りない何よりの証拠。(耳がいたい)
 
 深い思いやりとか慈悲心が、しだいに相手にわかりかけてくれば、
 叱るなどということは問題ではなくなる。

 真に優れた師は、門弟の人々を、共に道を歩む者として扱い、
 決して相手を見下すことをしないものである。
 
 よし今は自分より遅れていても、
 その中から自分に追いつき、乗り越えて
 進む者も出てくると考えている。
 この根本態度の確立している者にして、初めて真の教育者である。
 
 人は偉くなるほど、自分の愚かさに気づくと共に、
 他人の真価がわかってくるものである。
 
 そして人間各自、その心の底には、
 それぞれ一個の「天真」を宿していることが分ってくるのである。

 天真は万人に等しいが、ただ本性の開発程度いかんにより、
 そこにそれぞれ独自の趣きを発揮する。

 ひとたびそれがわかれば誰にも穏やかにやさしく、
 かつていねいに対せずにはいられなくなる。

 真に剛に徹しようとしたら、すべからく柔に徹すべき。
 魂をあつかう教育の問題は、至柔至剛の魂をもたなければ、
 真に解くことはできない。

 ※補足
 知恵とは自分で自分の問題に気づき解決するところにある。
 教育とはかかる知恵を身につけた人を作ること。

 死後にも、その人の精神が生きて、
 人を動かすようでなければならない。
 それには、生きている間、思い切り自己に徹して生きる外ない。

□第20章 雑話 

 修養の手段は読書と実行、本を読むも実行なき人間は
 恐れるに足りない。

 修養とは、その前では自ずから襟を正さずにいられないような
 人間になるために人間的威力を鍛錬すること。
 
 自己を築くには、読書という道具と、実行というこつが必要で、
 二つの呼吸が合って人間ができあがる。
 
 読書の順序は、まず当代の第一流の人の本を読み、
 次に古典を読む。
 
 常に書物を読んで、卒業後独力で自分の道を
 開いていけるような人間にならねばならぬ。

 国家の全運命を、独自の持ち場で動かさずんば已まぬという
 一大決心が確立したとき、
 天はその人に使命を果たすだけの寿命を与える。
 
 人間も死後、なお多少でも国家のお役に立つことができたら、
 まずは人間として生まれてきた本懐がある。
 
 極端にいえば、小中学校では尊徳翁の
 「報徳記」と「夜話」とを読ませれば、
 修身書はいらぬといえる。(私的にはそうなのかと納得)
 
 読書は鉄砲で的をねらうが如き、だが引き金を引くのは実行。
 本を読んでも実行せぬ人間は恐るるに足りぬ。

□第21章 血・育ち・教え 

 血と育ちを克服して気品を身につけるのは、
 教えによらなければ至難のことである。

 深い教育愛は、相手の将来が見え、将来国家に大切な人間で、
 しっかりしてもらわねばの心から生まれる。
 
 そこに眼が開かれると、自己に対しては無限の精進、
 後に来る者に対しては無限の愛情が湧くものである。
 (目からうろこ、こころを入れ替えよう)

 人間というものは、これを大きく分けると、
 だいたい血、育ち及び教えという三つの要素からできあがる。

 教えというものは、その人の心を照らす光で、
 家庭以外で一個の人格に接することによって与えられる。

 血と育ちという二つのものは、
 いかにも根強くわれわれに根ざしている。

 懸命の覚悟をもって、これが除去に着手せねば、
 とうてい除き清められるものではない。

 われわれの一生は、自分という一人の人間の、
 いわば面作りであり、生涯の修養の一々が自己に刻みつけられ、
 われわれはしだいにそこに浮き彫りにされていく。
 (すごいたとえ、迫真である)

 我々は、自分の血と育ちにおける卑しさが、
 言動のどこに、どんな形態で現れているかをまず知らねばならぬ。
 (わが身をふりかえり、恥ずかしさで消え入りたくなる)

 それに気づく手掛かりは、
 血や育ちのよさからくる気品ある人達の所業を、
 平生気をつけて見ている中にある。
 
 人間というものは、教えの光に照らされなければ、
 こうした点に対する深い自覚には至りがたいものである。
 (ここに救いがある)

 気品というものは、修養上最大の難物といってよく、
 生涯を掛ければ必ずできるとは容易にいいがたい。

□第22章 鍛錬道(1)
 
 師の弟子に対する鍛錬にはすさまじいものがある。
 (内容は、エピソードの紹介にで省略)

 ※補足
 全体との無限連関の理明らかになりて、初めて「分」の自覚生ず。
 世の中は総て受持ちなりと知るべし。
 受持ちとは「分」の謂にして、これも悟りの一内容なり。
 
 理としては一匹の蚤の跳ねるも全宇宙に反映し、
 わが一瞬のまばたきもまさに万象と相応ず。
 ただわれらの心粗にして、これを徹見し得ざるのみ。
 一即一切、一切即一。                  
                                                           
以上

コンサルティングに強い税理士小笠原/河原事務所 大阪 小笠原
でした。

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