続・二宮尊徳先生のお話~報徳思想⑦
2013.10.03
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永らくお付き合いをいただきました
二宮尊徳先生の思想をご紹介する回は
今日で終わりとなります。
第九篇 治国の要道
・金を投ずるのに道があって、
受ける者がその恩を感じなければ益がないのだ。
・「むかしより人の捨てざる無き物を
拾い集めて民に与えん」
この「人の捨てざる無き物」を拾い集めるのは、
私が幼年のころから努めてきた道で、
それがために今日までやってこられたわけです。
すなわちこれが、わが仕法金の根源なのです。
⇒尊徳翁は、子供のころ
放置されていた猫の額ほどの荒れ地を借り受けて
なたねを捲いて、油を取ってお金を貯め始めた。
やはり、思想や指導は、成功体験がないとダメだ。
・世の中の荒撫は、
その元は心田の荒撫から発するものだから、
わが道はまず心田の荒撫を開くのを
先務としなければならぬ。
⇒心のたんぼとはうまいことを言われる。
・皇国開びゃくの昔、
外国から資本を借りて開いたのではない。
・・・そもそも開びゃくの昔、
葦原に一人で天降ったものと覚悟すれば、
川の流れでみそぎをしたようにさっぱりする。
・・・この覚悟が、事をする場合の大本であって、
わが悟道の極意なのだ。
⇒新しいたんぼの開発を言う。
農業経済だからこうなる。
皆さんの会社に置き換えるとどうなるのだろう。
考えてもらいたい。
・どのような良法仁術でも、
村中一戸も貧乏人がないようにするのはむずかしい。
なぜなら、人には勤惰があり強弱があり賢愚があるし、
家には積善と不積善とあるし、
なお前世の宿因というものがあって、
これは何ともしかたがない。
このような貧者は、
ただその時その時の不足を補って、
すっかり転落しないようにするしかない。
⇒どのような社会、組織にも
落ちこぼれはいるものだ。
このように達観して、包んでしまえれば
すばらしい包容力をもった
リーダーシップといえる。
・村里の復興をはかる者は、
米や金を倉に積むことは尊ばない。
この米や金を村里のために使い払うことを
専務とするのだ。
この使いかたのじょうず・へたによって
復興に速い遅いが生ずるのであって、こ
れが最も大切なことだ。
⇒利益の蓄積としての資金を
どう使うかに経営の効果性が問われる。
少し、永くなるが最終章も一気に行きたい。
第十篇 一円融合の報徳修練
・家というものは、まさに船と心得るのがよい。
世の中は大海だ。
してみれば、この屋船に事があっても、
また世の大海に事があっても、
みんなのがれられないことで、
船頭はもちろん、この船に乗り合った者は、
一心協力してこの屋船を維持せねばならぬ。
・若輩の者は、よく家道を研究せねばならぬ。
家道とは分限に応じてわが家を保つ方法のことだ。
家の持ち方は、やさしいようだが至ってむずかしい。
まず早起きから始めて、勤倹に身を慣らさねばならぬ。
⇒早起きは成功者の共通した性癖である。
心されたい。
・人の子というものは、ひどい親不孝者でも、
もしも他人がその親の悪口をいえば、きっと怒るものだ。
これは「父子の道は天性」(孝経)だから怒るのだ。
詩経(大雅、文王篇。孝経引用)に
「爾(なんじ)の祖を念(おも)うことなからんや。」とあるが、
まさにそのとおりだ。
⇒このことのたとえで、この詩を持ち出すところが
尊徳翁の面目躍如だ。
独自の解釈に面白みがあると思う。
・「かりの身を元のあるじに貸し渡し、
民安かれと願うこの身ぞ」
この世は、われひと共に
わずかの間の仮の世なのだから、
この身はかりの身であることは明らかだ。
元のあるじとは天のことをいう。
生涯一途に世のため人の為ばかり思う。
国のため天下のために有益なことばかりを勤める。
そうして一人でも一家でも一村でも、
困窮を免れて富有になるように、
土地も開け道・橋も整って安穏に渡世できるようにと、
それだけを日々の勤めとし、朝夕願い祈っておこたらぬ。
わが好みであるという心で読んだものだ。
これが私の畢生の覚悟だ。
⇒まさに、『書経』以来の
儒教思想の原点のリーダーの考え方
・女大学は女子の教訓であって、
貞操心を鍛錬するための本なのだ。
鉄もよくよく鍛錬しなければ
折れず曲がらぬ刀にならないようなもので、
すべて教訓とはそういうものだ。
だからこれは、男子の読むものではない。
誤解してはならぬ。
・・・教というものが、対象によって、それぞれ異なる・・・
⇒これは、ヒントになった。
対象によって、教えは異なり、
対象でない場合、かえって邪魔になることすらありうる。
・世の中の人を見るがよい。
一文の柿を買うにも、二文のなしを買うにも、
しんとうのまっすぐな、きずのないのを選んで取るだろうが
・・・世間の人はみんなそうする。
・・・人に選ばれて婿となり嫁となる者や、
仕官して立身を願う者が、
おのれの身に傷があっては
人が取らぬのはもちろんのことで、
そのきずの多い身のくせに、
用いられないというと、
上に目がないなどといったりする。
大きな間違いだ。
そのとき自ら反省してみるとよい。
きっと自分の身にきずがあるためにきまっている。
・・・どれほど草深い中でも、
山の芋があれば、
人はすぐ見つけて捨てては置かず、
また泥深い水中に潜伏する
うなぎ、どじょうも、必ず
人が見つけて捕える世の中だ。
だから内に誠があって
外にあらわれぬ道理はありえない。
この道理をよく心得て、
自分の身にきずがないように心掛けるがよい。
⇒すばらしい!至言だと思った。
・およそ権勢の盛んな官職について、
富も自由自在のときこそ、
礼譲・謙遜を尽くす。
・・・官位に進んでは勤苦し、
退いてから遊楽するのは、
昼働いて夜休息するようなものだが、
反対に、官位に進んでは
富有にまかせて遊楽・驕奢にふけり、
退いてから節倹に勤めるのでは、
昼間休息して夜勤苦するようなものだ。
昇進した上遊楽していれば、
だれがうらやまずにいようか。
だれがねたまずにおこうか。
雲助が重荷を負うのは、
思う存分酒食をとりたいためだ。
遊楽・驕奢をしたいために
国の重職にいるとすれば、
雲助などの行き方と隔たりはない。
⇒ずきんと来ました。
・礼法は、人間世界の筋道だ。
人間世界に筋道があるのは、
たとえば碁盤・将棋盤に筋目があるようなものだ。
・交際の道は、碁将棋の道にのっとるのがよい。
・・・自分が富んで、才芸があり、学問がある場合に、
先方が貧しければ、富をはずすがよい。
先方が才能がないならば、才をはずすがよい。
無芸ならば芸をはずすがよい。
無学ならば学をはずすがよい。
これが将棋をさすときの法であって、
このようにしなければ交際はできないのだ。
また自分が貧しくて、才能がなくて、無芸無学ならば、
碁を打つときのように心得るがよい。
先方が富んだ人で、
才能もあり学もあり芸もあったら、
何目も置いて交際するのがよい。
これが碁の道だ。
⇒次々に、ずきんとくる名言の連続だ。
ほんとうに噛んで含めるように教えていただける。
とても、とても学びになった時間でした。
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大阪 税理士 小笠原 でした。