『小学』とはなんじゃらほい?
2013.06.13
ブログ
『小学』を読み終えました。
「小学ってなに?」
『小学』とは『大学』に対する小学です。
前に紹介した中国のリーダー学の儒教テキスト『大学』に対して
その前段階で勉強するのが『小学』というわけです。
もう少し、詳しく説明しますと・・・
儒教では、学問の目標は、リーダーが君子として徳で世を治めるようになることです。
そのために『修己』、つまり自分を鍛えるわけです。
その原理の理論書が大学です。
しかし、それには分厚い実践活動が必要です。
そして、それは子供のときからの修練です。
その実践テキストが『小学』なのです。
それは南宋の大儒(大哲学者)朱子が編纂させたものです。
きっと、その欠落、当時の思想の衰退ぶりを憂いて作らせたのでしょう。
内容は、大きくは内外二篇、全六篇に分かれています。
内篇は、立教、明倫、敬身、稽古の四篇で、理論概論
外篇は、嘉言、善行で、漢代以降のよい手本となる人々の言行録です。
儒教では、子が父に事える『孝』の考え方と実践が社会規範の原点だとされています。
それが、他の人間関係、特に君に事える『忠』や、
目上に事える『悌』、朋友と交わる『信』といった姿勢に反映すべきだとなります。
その中心的な実践課題は『敬』に居ることです。
孝と敬のあり方が眼目となっています。
冒頭の朱子が寄せた言葉をご紹介しましょう。
「古(いにしえ)は小學、人を敎うるに
灑掃(さいそう=おそうじ)・應對(おうたい)・進退の節(出入りの節目)、
親を愛し、長を敬し、師を隆[たっと]び、友に親しむの道を以てす。
皆、脩身・齊家・治国・平天下の本(もと)と爲(な)す所以(ゆえん)にして、
必ず其れをして講じて、之を幼穉(ようち)の時に習わしむ。
其(そ)の習い、智と長じ、化、心と成り、
扞格[かんかく=むじゅん]して勝(た)えざるの
患(うれ)い無からんことを欲するなり。
今、其の全書は見る可からずと雖も、
傳記に雜出する者亦多し。
讀む者往往直[ただ]古今の宜しきを異にするを以てして、之を行う莫し。
殊に知らず、其の古今の異なること無き者は、
固より未だ始より行う可からざるにはあらざるを。
今、頗る蒐集して、以てこの書を爲し、
之を憧蒙(どうもう=幼い者)に授け、其の講習に資す。
庶幾(こいねが)わくば風化の万一に補い有らんかと爾か云う。
淳熈丁未(1187年)三月朔旦、晦菴(朱子)題す」
思いがあふれるお言葉ですねえ。
つまり子供の訓練は、おそうじ、人に対する応対のしかた、出退の際のあり方、
そして忠孝悌信のあり方なのですね。
今からでも遅くはないと考えざるを得ませんね。
「元亨利貞(げんこうりてい)は天道の常、
仁義禮智は人性の綱。
凡そ此れ厥の初め不善有ること無く、
藹然[あいぜん]たる四端(仁義礼智が顕われる惻隠・羞悪、辞譲、是非のこころ)、
感に隨いて見わる。
親を愛し兄を敬し、君に忠に長に弟なる、是を秉彛[ひょうい]と曰う。
順うこと有りて彊[し]うること無し。
惟れ聖は性のままなる者、浩浩たる其の天、
毫末をも加えずして萬善足る。
衆人は蚩蚩[しし]、物欲交々蔽い、
乃ち其の綱を頽[くず]して此の暴棄に安んず。
惟れ聖斯に惻れみ、學を建て師を立て、以て其の根に培い、以て其の支を達す。
小學の方は、灑掃應對、
入りては孝、出でては恭、
動くには悖ること或る罔く、
行いて餘力有らば、詩を誦[くちずさ]み書を讀み、
詠歌し舞蹈して、思うには逾[こ]ゆること或る罔し。
理を窮め身を脩むるは斯れ學の大、
明命赫然として内外有ること罔し。
德崇く業廣くして、乃ち其の初めに復る。昔足らざるに非ず、
今豈餘有らんや。世遠く人亡[う]せ、
經殘[そこな]われ敎え弛み、蒙養端[ただ]しからず、
長じて益々浮靡[ふび=うわつきなびく]、郷に善俗無く、
世に良材乏しく、利欲紛挐[ふんじょ・ふんだ]し、異言喧豗[けんかい]す。
幸に茲の秉彛[ひょうい]は極天墜つる罔し。
爰に舊聞を輯め來裔を覺さんことを庶う。
嗟嗟小子、敬みて此の書を受けよ。
我が言の耄[ぼう・もう=おいぼれ]なるに匪ず。
惟れ聖の謨[も=はかり]なり。」
世の自然=人間の生成原理は、元亨利貞、つまり四季の循環であり、
人間のありかたは、仁義礼智であり
それでもって、自然と世の中はおさまる。
ところが人間は拙いから、雲を払わないとそうはなれない。
いずれ、人は順番に社会をになっていくわけだから
大学を学ばなければならないが
その志の前に小学がある。
今の世は堕落しているとはいえ、
先学の、先人の教えは幸いにして残っている。
さあ、勉強しよう。
というわけです。
なんと、朱子の気迫がみなぎってくるではありませんか。
この後、幾多の書籍、幾多の事跡から
その学びと訓練のあり方が示されます。
中には、じんと胸が熱くなるエピソーもあります。
古への人たちの
親孝行、身内への思いや行ない、
そして、主君への忠誠、諫言、自己犠牲、
利を求めず、理を求め、義をめざすその生き方に
おもわず、背筋が伸びる思いです。
こうしたカタストロフィ(心の洗い流し)も我々には必要だなあと思ったしだいです。
私事ですが、
わたしの遅まきながらの儒教探究の旅は、
やっと、五経のひとつ『書経』に入っていきます。
がんばって読んでみます。
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大阪 税理士 小笠原 でした。