森信三先生の修身教授録は、読むたびに深くこころに響くことがある。
2012.07.31
ブログ
昨日、京都のとある会社で、幹部の価値観教育をさせていただいた。
わたしが価値観教育をする場合、
メインテキストは、森信三先生の『修身教授録』を使わせていただく。
昨日は、その第1章から20章までが読書課題であった。
グループでの感想の述べ合いをしたあと、
いつもそうするのだが、
わたしが作った要約にしたがって、
再度、森先生のお教えを概観していった。
このとき、わたしも
そのときどき課題に思っていること、忘れていることに気づかされる。
ほんとうにそうだなあとあらためて感じたり、自己変革への決意をしたり。
今回は、第19章の松陰先生の片鱗というところが、深くこころに突き刺さった。
その内容は次のようなものだ。
要約→生徒は共に道を歩む者だという根本態度が確立すれば、至柔至剛で教育できる。
本当に偉い方というものは、
みだりに声を荒げて、生徒や門弟を叱られるものではない。
大声で生徒を叱らなければならぬということは、
それ自身、その人の貫禄の足りない何よりの証拠。
深い思いやりとか慈悲心が、しだいに相手にわかりかけてくれば、
叱るなどということは問題ではなくなる。
真に優れた師は、門弟の人々を、共に道を歩む者として扱い、
決して相手を見下すことをしないものである。
よし今は自分より遅れていても、
その中から自分に追いつき、乗り越えて進む者も出てくると考えている。
この根本態度の確立している者にして、初めて真の教育者である。
人は偉くなるほど、
自分の愚かさに気づくと共に、他人の真価がわかってくるものである。
そして人間各自、その心の底には、
それぞれ一個の「天真」を宿していることが分ってくるのである。
天真は万人に等しいが、
ただ本性の開発程度いかんにより、そこにそれぞれ独自の趣きを発揮する。
ひとたびそれがわかれば、
誰にも穏やかにやさしく、かつていねいに対せずにはいられなくなる。
真に剛に徹しようとしたら、すべからく柔に徹すべき。
魂をあつかう教育の問題は、至柔至剛の魂をもたなければ、真に解くことはできない。
※補足
知恵とは自分で自分の問題に気づき解決するところにある。
教育とはかかる知恵を身につけた人を作ること。
死後にも、その人の精神が生きて、人を動かすようでなければならない。
それには、生きている間、思い切り自己に徹して生きる外ない。
・・・足りないところだらけだと感じた。
多少のことでいい気になっている自分もいる。
ときに、気分をおさえきれず、声を高めたりすることで、
皆さんの琴線に訴えることが効果的だと考える浅はかな自分もいる。
もっと高みに止揚しなければならないと感じた。
当分、このことを意識して努めたいと思った。
皆さん、わたしが忘れかけていたら注意してください。
コンサルティングに強い経営エンジン研究所/税理士法人小笠原事務所
大阪 小笠原 でした。