さくら
2024.04.13
プライベートなお話
春ですねえ。春といえば『さくら』。わたしもさくらが好きです。長く厳しい冬を通り越してきて、春の到来を告げてくれからです。
さくらを見ながらいろいろなことを想います。なつかしかった子供の頃、入学式、母に連れられて小学校に行ったこと、折々、年年歳歳の桜の風景の想い出、その中に祖父や父や母、友人や、家内や子供たちなどの表情が織り込まれます。
この年になると、いちばん思うことは、あと何回この花を見れるだろうかということです。だからよけい桜の花がいとおしく感じられるのです。
過日、たそがれどき、家の前にある数本のさくらを愛でて、道ばたに腰を掛け、ありあわせのものでですが、家内とささやかに宴を催しました。手にもつグラスはオーストリアのロゼワイン、名づけてSAKURAです。
さくらの最高の名所は、わたしにとってはなにしおう吉野山。万朶の花がめくるめく、酔うようです。近くなら靭公園もあります。ですが、あいにく、さくら以上に人が多いのです。
人ごみが苦手なので、だれも注目しないひっそりとしたこの場所で、満開の桜を数本独占。それもよいではないでしょうか。
若かったころ、渓流釣りが好きで、毎週、吉野の奥に渓魚を求めていました。この時期は、山は新芽の黄緑色に彩られています、その中に、あちらこちらと山桜がひときわあでやかに咲いています。車を走らせながら、そんな景色を見て、幸せな気持ちになったものです。
「敷島の大和心をひと問わば、朝日に匂ふ山桜花」とは本居宣長の歌です。歌はへたくそと評された宣長ですが、わたしはこの歌が大好きです。日本人だなあと感じるからです。
このあと、山は、ひめしゃが、山つつじ、あじさいへと変化していきます。訪れるごとに移ろって、やがて夏になっていきます。山と渓の景色、草花と木々の匂いが、目を閉じるといまもまぶたに浮かび、鼻孔をくすぐります。
西行は、「願わくば花のもとにて春死なむ、その如月の望月のころ」と詠い、そのとおり成就したといいます。わたしは菊の季節に生まれましたが、やはり西行のようにこの季節にみまかるのでしょうか? そのときは、宣長のようにお墓にさくらを植えてくれるやうにいっておこうかなあ。
今、大阪には、とても多くの外国の旅人がきています。昨日も、京都の出町柳から賀茂川のほとりを歩いていたら、花にカメラを向けている人がいました。彼らにはさくらはどう映っているのでしょうか。訊いてみたい気がしました。目を転ずると川向いの大文字さんがひときわ美しかった。