カエサルの名演説-その1
2023.05.17
経営者へのメッセージ
ガイウス・ユーリウス・カエサル(前100―前44)、古代ローマの最も偉大な将軍,政治家である。民衆派に属し,青少年時スッラの全盛時代であったため各地を転々とし,前78年スッラの死を聞いてローマに帰り,前77年以後政界に入った。ロドスで修辞学を学び,前68年財務官,前65年按察官を経て,前63年大神官に当選。その選挙費用のためローマ最大の債務者となった。前61年ヒスパニア総督,翌年ローマに帰ってポンペイウス,クラッススと第1次三頭政治を形成,前59年執政官となり,市民への土地配分など政治的手腕を発揮した。前58年からガリア遠征に向かい,ガリア・トランサルピナの諸部族を平定,前52年ウェルキンゲトリクスの大反乱をも鎮圧,ローマのガリア支配を確立するとともに,今後の活動に必要な優秀な軍隊と豊富な資金を取得した。
前54年カエサルの娘でポンペイウスの妻ユリアが死に,前53年クラッススがパルティア帝国と戦って敗死すると,三頭政治に代わってカエサルとポンペイウスの対立となった。前49年閥族派がポンペイウスと組んでカエサル召還を元老院で決議したため,カエサルはルビコン川を渡ってローマに進撃。ポンペイウスはギリシアに逃れ,カエサルはまずヒスパニアを討ち,前48年ギリシアに渡り,ファルサルスの戦いでポンペイウスを破った。エジプトに逃れたポンペイウスを追ったカエサルは,プトレマイオス朝の内紛に介入して,クレオパトラ7世と結ばれ,彼女を女王とした。前47~前45年にはポントス(黒海),アフリカ,ヒスパニアに転戦,ポンペイウス派の残党を撃滅してローマに帰還し,盛大な凱旋式を行なった。
前46年に共和政の伝統に反して 10年任期の独裁官となる。前44年に終身の独裁官となり,監察官職を取得して元老院に腹心の者を無制限に入れ,その数 900人に及んだ。反対者には仁慈をもって接し,独裁者として多岐にわたる立法活動を行ない,救貧事業,植民市建設,暦法改革などを実施。属州総督の任期の限定,弊害の多かったアシア州とおそらくそのほかの州の徴税請負制度の廃止,税額の軽減を行なった。
しかしカエサルの強大な実権は王政実現への危惧を引き起こし,ついに共和派のマルクス・ユニウス・ブルーツスらによって元老院議事堂で暗殺された。共和派の意図に反して民衆はカエサルの死を悼み,養子とされたオクタウィアヌス(アウグスツス)が彼の跡を継ぐことになる。
雄弁,文筆にも卓越し,『ガリア戦記』『内乱記』などを著している。王にはならなかったが,カエサルの名称より皇帝を意味するドイツ語のカイザー Kaiser,ロシア語のツァーリ Tsariが生じた。
以上はおそらくウィキペディアか何かからの引き写しである。さて以下は塩野七生さんの『ローマ人の物語』からの転載である。ちなみにこの本はとても面白い。ご興味を感じられる向きはぜひお手に取ってください。
カエサルの演説➀-ガリアにおけるゲルマン人への攻撃出立前夜(塩野七生氏による『ガリア戦記』の引用)
「この恐怖には、まず先に、カエサルとの縁によってこの戦役に参加していた、戦場経験も少ない若い将官連中が犯された。彼らの何人かは、急の用事が出来たから発たねばならないとカエサルに休暇を願い出、他の者は、臆病者と見られるのを恥じて留まった。だが、留まりはしたものの元気を装うことまではできず、天幕に引きこもって一人涙にくれるか、同僚同士で集まっては、自分たちを待ち受ける運命を嘆き合った。宿営地全体は、遺言書に封印をする音で満たされた。
この恐怖は、少しずつ、戦場には慣れているはずのベテラン兵士や百人隊長や騎士団長にまで浸透していった。パニックに陥っていると見られたくない者は、ゲルマン人は恐ろしくないのだが、ゲルマン軍のいるところに行くまでの険しい道や深い森林が恐ろしいのだ、と言ったり、他の者は、その道を運ばねばならない兵糧が心配だ、と言ったりした。ある者などは、カエサルのところまで注進におよび、もしも総司令官カエサルが宿営地を引き払って出発を命じても、兵士たちは軍旗を先に立てての行軍を拒否する可能性は大である、と言った。
〖アリオヴィストゥスは、わたしが執政官であった年に、ローマとの友好関係の樹立を強く求めてきた男である。それなのになぜ、あれほども望んだ関係を理由もなく壊すであろうか。わたし自身は確信している。彼がわたしの要求をよく理解しその実施の公正を知るならば、わたしとローマ国民が彼に与えた約束を反古にするようなことはしないと確信している。とはいえ、もしも彼に狂気に駆られてわれわれに戦いを挑んできたとしても、お前たちはなぜおそれねばならないのか。なぜ、お前たちの勇敢さとわたしの思慮に、疑いをいだかなければならないのか。
ゲルマン民族とは、われわれの父の代にローマは対戦した。マリウスが、キンブリ族とテウトニ族を壊滅したときである。その後ならば奴隷戦役があるが、彼らがローマ軍と渡り合えたのも、ローマ人から学びとった戦術と軍紀によってであった。これらの例から見ても、戦いに勝つには、不屈の意志こそが最上の武器であることは明らかだろう。実際、長い間理由もなくゲルマン人を恐れてきたローマ人だったが、対戦するや破ったのである。ゲルマン人といっても、ヘルヴェティ族でもしばしば勝ったことさえある人々と同じ民族なのだ。そのヘルヴェティ族を、われわれは敗北させたではないか。…
また、出陣命令がくだっても兵士たちはわたしの命に従わず、軍旗の後にも続かないという陰口だが、そのような噂をわたしは意に介さない。なぜなら、兵を従えることができなかった将軍は、戦略を誤ったために幸運から見離された者か、金銭欲に駆られて不正行為に走った者かのどちらかであるからだ。わたしの公正と無私は、これまでのわたしの半生が証明するとおりであり、幸運にも、ヘルヴェティ族への勝利が示してくれている。
それでだが、もう少し後で伝えようと思っていたことを、今ここで言う。明日の夜、第四歩哨時に入るや、わたしは宿営地を引き払う。お前たちの心のなかで、恥じ入る想いと義務感が勝つか、それとも恐怖が勝つかを知るためでもある。もしも従いてくる者がいなかったとしても、第十軍団だけは率いて出発する。第十軍団ならば、忠誠は疑いようがない。そして、第十軍団はこれ以降、わたしも近衛軍団となるだろう。〗』
人心把握の技の極を示して、言葉もない。これでは、女相手にだって成功するはずである。
カエサルのこの夜の演説は、またたくまに宿営地のすみずみにまで伝わり、全兵士の士気は一変した。第十軍団の兵士たちは自分たちの指揮官を通じて、カエサルに自分たちの忠誠と義務感に信頼を置いてくれたことの礼を述べ、戦いに出向く準備は完了していると告げる。他の軍団も指揮官を送ってきたのは同じだが、彼らがカエサルに告げたのは陳謝で、二度と、総司令官の戦略を批判するようなことはしないと謝ってきたのだった。カエサルは、彼らの陳謝を受け容れ、もと通り部下として認めた。」
自分のことをカエサルと書くこの記載術。史上最高と言われる天才的なラテン語の作家の筆力の面目躍如たりである。
続く。