御堂筋税理士法人創業者ブログ

吉田松陰、幼名大次郎は、長州藩毛利家の下級武士の生まれである。
人柄篤実な父、杉百合之助と、働き者の母、滝との間の
三男四女の、二番目の次男として生を受けた。

兵学師範の吉田家を継いだ叔父が若くして逝き、
わずか六歳で、松陰が当主を継いだ。
藩校明倫館で、わずか11歳の松陰が兵法の講義をするのを聴いた
藩主の毛利義親公は、そのよどみなさに気を飲まれたという。

古めかしい山鹿流兵学の訓話も、吉田大次郎矩方の口を通れば
いきいきとした実践時勢活学となった。
「儒士の道学を説くは、套語層々、人をして睡を催さしむ。
矩方の兵を講ずるを聴くに、席の前むを覚えざらしむ」
とは、藩主慶親の述懐である。私もかくありたいものだ。

山田宇右衛門という藩政で活躍した人からは
海外の知識や視野を広げることの大切さのアドバイスを受けた。

そして、二十歳の折、念願かなって九州平戸を旅する機会に恵まれた。

詩を書きとめ、文をつづり、人に会い、貪婪なまでに見分を広げようとする
多感な旅程は、松陰の思想形成に大きな役割を果たした。
その感受性は鋭く、行く先々で好意により手にする機会を得た書籍の
読書とまとめに、全力を傾注する学業専心の姿勢であった。

藩主の参勤交代に同行し、江戸遊学の機会を得た松陰は
江戸で、多くの知己を得、また主義思想を展開させていく。

そして東北を見聞することを企図するようになるのだが
ふとしたきっかけで藩からの亡命という暴挙に出てしまう。

帰京した松陰を待ち構えていたのは、帰郷謹慎の沙汰であった。

24歳で再び上京した松陰を待ち構えていたのは
黒船来航という歴史的事件であった。
浦賀に急行した彼は、
「心甚だ急ぎ飛ぶが如し」と書き送っている。

幕末の思想家、佐久間象山に影響を受けていた松陰は
その後のアメリカの開国要求に対する
幕府の優柔不断な姿勢と、
挙句の果ての朝廷裁可を得ずした幕府の修好条約締結に
江戸幕府倒幕の決意を固めていく。

黒船密航未遂に問われ、獄につながれ萩に護送された松陰は
獄中にあっても囚人たちに講義を続けた。
宿命的に教師であった松陰の生き方は、
時と場所を問わず、不思議な力でもって展開され
居合わせた人々をひきつけずにはおかなかった。

獄中でも読書は続けられ、下獄以来の三年間の読破冊数は千五百冊を超える。
また、著述は四十五篇にのぼり、
すさまじいまでの研鑽と思想展開の充実ぶりである。

出獄後、萩城下に質素な屋敷を構えた実家に寄宿した松陰は
孟子を講義し出した。有名な松下村塾である。
指導理念は、「華夷の弁」を明らかにする、
つまり偏狭な考えを是正し、
どの僻地であろうとそこでの励めが華だということだ。
辺境に英才教育の場を興す壮大な意図を唱っている。

松下村塾では、単なる漢籍の講義といった訓詁の学風を避け
師弟のあいだでの時局をめぐる熱を帯びた討論が繰り返された。
「学とは、書を読み古を稽(かんが)ふるの力に非ざるなり、
天下の事体に達し、四海の形勢を審らかにする、是れのみ」
多くの俊英が集まり、その後明治維新のさきがけとなる
長州人の封建的身分関係を超えた友情の機運を育んだ。

松陰の性格について、門下生は、
「怒った事は知らない。人に親切で、誰にでもあっさりとして
丁寧な言葉使いの人であった」と述べている。
「諸友に語ぐ」に見えるように、
教えるというよりも、諄々と説き、訴える調子が目立つ。

内面に激しく情念を燃やしながら、人間に対しては限りなくやさしく、
怒らず、そのモットーとする「至誠」をかかげて接近していく。
松陰の感化力の秘密は、そのようなところにあった。
門下生の中で、その後戦死、自刃した者が多数あるのもその影響力の
尋常ならざるところを示すものである。
おそろしいほどの人格による感化力である。
わたしもたとえ足許であっても、近寄りたいと希うところである。
そして、門下生の多くが、
「積誠もてこれを動かし、然して後動くあるのみ」との松陰の後押しを得て
巣立っていったのである。

安政の大獄の粛清が始まり、とあることで江戸召還の命を受けた
松陰は、取り調べでうかつにも不用意なことを吐露してしまう。
それに過敏に反応した幕府から、
数回の取り調べを経て、ついに死罪に処されてしまうのである。
うかつといえば、うかつなことであった。

その過程、獄中で、松陰は徐々に死罪免れえずの感を感じ
死生観を確立し、それが「留魂録」に結集していく。それが
「今日死を決するの安心は、四時の順環に於て得る所あり」と語る部分である。

松陰が死の前日に書いた留魂録は、
その後、松門の志士たちの聖書となった。
諄々と教えさとす口調は、
死の瞬間まで教師であろうとする松陰の遺書といえた。

彼は三十歳で処刑場の露と消えた。
しかし彼は種を植えつけて去って行った。
先駆者の役割は、すでに果たされていた。
「義卿三十、四時已に備はる、亦秀で亦実る、
其の秕たると其の粟たると吾が知る所に非ず。
若し同志の士其の微哀を憐み継紹の人あらば、
乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ざるなり。
同志其れ是れを考思せよ。」

死そのものが、最後の教訓として門下生を奮い立たせたのであった。
そして、今も我々を奮い立たせるところである。

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留置まし大和魂」

至誠、熱血、行動、感化の人であった。
私も大変感ずるところがあった。
もっと人となりを知りたいと思った。

コンサルティングに強い経営エンジン研究所/税理士法人小笠原事務所
大阪 小笠原 でした。


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