思考について思考する-その1
2024.02.09
読書と修養
最近、観察力だの、問題発見力だの、ポストモダンだの、グーテンベルグの銀河系(印刷技術発明の人間社会へのインパクト)だの刺激的な本に出合ってきた。
そこから考えることは、思考とはなにかということである。それはよりよい思考には何が必要かという問題意識である。やっぱり、思考が世界を創り出しているのだからなあ。もう少していねいにいうと、私の考え方や考えていることが、私が見ている世界の見え方であるということだ。
そう考えると、どのように思考するかは、人生やビジネスでの成果を決めるのではないだろうか。だから正しく考える、的確に考える、生産的に考える、成果に向けて考える、効果的に考える、ついでに効率的考える方法とはどういうことかについて、一定の自分なりの結論を出したいと思うのである。
ところがこの問題、へたに取り組むと大変なことになる。いわゆるパンドラの箱を開けてしまうからである。つまりおもちゃ箱をひっくり返してしまって収集がつかなくなってしまうのではなかろうかと怖くなってくるのである。
なぜなら、思考とは何かなどというかなり抽象的(形而上学的)なことを考え出すということは、西洋2500年の知の歴史を考えることとほぼ同じことになるからだ。だからそんな無謀なことはやめにして、自分のまとめたい答えに向けて思考したいと思う。
とはいえ、少し大風呂敷から始めたくなる。そのキーワードは『合理的』ということである。これは西欧では、16世紀の偉大な哲学者であるデカルトによって提起された問題である。
デカルトの言いたいことのキモは「分析」である。分析の要点は細かく分けるということである。その結果『機械論』なるものが導かれる。
ニュートンによる自然の数字による説明、産業革命などを通じて、啓蒙思想、合理主義は西欧世界を席捲した。
合理的思考の功績もさることながら、最大の問題は、世界のしくみの単純化である。その結果、肥大化した自我、独裁者、国家は、共産主義とナチスと原爆を生みだした。
その反省が、第二次大戦後ドイツとフランスで起こった。フランスではポストモダン、つまり合理化のあとの思考とは何かということである(ちなみにドイツではフランクフルト学派)。
それには様々な視点があると思うが、私は合理的思考の問題としては、知が道具的知に堕したということが最大のことだと思う。
道具的知とは、ものごとをより便利にするための知恵をいう。例えば、製材をするのに、のこぎりが発明され、さらにそれがチェーンソーに改良されたようなことである。つまりその知とは、ものごとをより効率的になすためのものであって、正しいことは何かを探求するための知ではないのである。
ろくでもないことを効率的に行なうなどということはやはり本質から外れるのではないか。正しいことをへたに行なう方が無限倍に意味がある。
だから、私は正しいことを追求することがだいじだと思うのである。それは、価値的な課題であり、統合的な思考による。真善美であらわされる何かの追求である。そうした智慧を、物語的知というらしい。それは神話であり物語であり、例えばヘシオドスの『労働と日々』である。
書いているうちに、やっぱりパンドラの箱になってきたので、ここらあたりでいっぷくしようと思う。思考の具体的課題については、別途、お話したいと思う。
以上