わたしの思考のしかたと最近考えていること
2022.04.30
プライベートなお話
皆さん、こんにちは。久しぶりにブログを書きます。今回のテーマは、私の思考のしかたと最近考えていることです。皆さんに少しでも参考になればと思い立って、これを書くことにしました。もちろん、皆さんも皆さんなりの方法をお持ちだと思いますので、私の拙い方法をご覧になり、苦笑されるかもしれませんが。
ものを考えるときに私が使っているツールは、写真のようなノートです。これはコクヨから販売されている「打合せ記録表」という商品です。もうかれこれ20年以上も前にこの商品を見つけて以来、ずっと使っているものです。中の罫線が碁盤の目のようになっており、私の好みなのです。
今使っているノートがおしまいになって、新たなノートを使いだすにあたり、今のものをはじめから見直してみました。そこであれこれ思うことがあったのでこのブログを書こうと思い立ったわけです。このノートを使い始めたのは昨年の1月1日です。だから、この1冊を1年と4ヶ月で使いきったというわけです。この期間が長いのか短いのかはわかりません。その時々によって、頻繁にアイデアを考える期間もあれば、そうでない期間もありますので。
ただこのノートが通巻23冊目となっていて、それにはついては我なりに感慨があります。第20巻を除くすべてのノートは書棚に保管しております、まあ見返すことはありませんが。第20巻が抜けているのは、それをどこかに忘れてきたからです。けっこう大事なことを書きつけてあったのでそれをなくしたことは残念です。
さて、この第23巻をぱらぱらと見返してみてまとめると、大体次のようなことが書きつけてありました。
・『経営の考え方』(私が去年まとめた私本)の構想
・問題解決についての思索
・数字力や論理思考についての思索
・マネジメント・スキルの研修体系についての思索
・経営計画などセミナーの内容や体系についての思索
・生産管理についての知識のまとめ
・哲学や思想のまとめ
・自分の会社のことについての私の問題意識についての考察
・個々のお客様との打ち合わせ記録
などです。
こう見てみると、近時の私の問題意識があらためて浮き彫りになり、興味深いものがあります。やはり、何かをし終わったときに、したことをふりかえって自分なりにまとめておくことは有意義だと思いました。なぜといって、一見とりとめもないことが、こうすることで大きくまとめることができ、思考が整理されるからです。そうすると、自分のしていることをかなり要約して話をすることもできるからです。
私のしごとは、有為な中小企業が高業績企業になることをお手伝いすることです。私はこのことを自分の使命だと思っています。それは、企業が社会を回していくエンジンだからです。具体的に申しますと、企業が生み出す新たな付加価値が、私たちの暮しに栄養を供給しているからです。
そのためには、私のお客様の会社に問題を解決し成長発展してもらわなければなりません。そしてそのためには、私やその会社の経営者・幹部・社員の皆さん方が、業績や起こっていることを正しく捉え、そして的確に手を打っていかなければならないと思っています。
私が、近時探求しているテーマは、上記のようなことのために、世界をどのように捉えていけばよいか、思考していけばよいか、また会社の皆さんがそうした能力を身につけていくためにはどのようなことを学ばなければならないか、そして私はどうしたらそれらをわかりやすく伝えることができるのかということについてです。
最近私は、ビジネスとは問題解決である、と考えています。問題解決をするためには、ものごとをすなおに正しく見て、問題を定義し、それを分析して、その因果関係を明らかにし、原因となっていることに手段を講じ、その結果を検証していかなければなりません。おおむね本に書かれている問題解決の手順とはそのようなことです。
そのためには、ビジネスでおこる様々な問題や目標実現に向けた課題の構造がどうなっているかを洞察し、どうしていけばそれらを解決しまた実現していくかを端的にまとめていく必要が私にはあるのです。
ビジネスでものごとがうまく行かない現象を見ていて、そのうまく行かない理由を考えてみますと、私には次のようなことが想起されます。
・そもそもそのものごとを注意してしっかりと見ていない
・そしてそのことの全体像と部分が見えていない
・解決への具体策を描けない
・そのものごと(主に問題ですが)の中に矛盾が潜んでいる
・解決のためのさまざまな行動を徹底してできていない
上で挙げた項目は、おおむね問題解決の順序にしたがっていて、その出発点がものごとの注意深い観察だと言えます。
そこでやはり本質を見極める力が不可欠だと感じ出しています。この手の話をアマゾンで検索すると、まっ先に出てくるのが『エッセンシャル思考』という本です。私もかつてこの本を通読したことがあります。そのときはそりゃそうだと思いながらも、腑には落としていませんでした。自分事でなかったのでしょうね。
世の中のことを説明するのにあまりたくさんの理屈を立てるのは好ましいことではないと、哲学では申します(オッカムの剃刀)。そうするとどうしても本質を見抜く力が必要になります。では世界で起こるできごとに潜む本質、つまり起こるメカニズムとそれを解決する原則とは何なのか?
私は、それをスパッと要約し皆さんに提示できればと熱望しているのです。そうすれば皆さんの会社の課題が解決し、業績がぐんと上ると思うのです。
そのために、私が取り組んでいる分野がいわゆる『認識論(Epistemology)』といわれる分野なのです。考えてみれば、哲学は古代ギリシャのターレス以来、私たちが生まれて生きている世界、自然と人間の意識をどうとらえれば的確に分かるのかを学してきました。それが知を愛するということですよねえ。だから哲学のことを、フィロ(Philo=愛する)ソフィア(Sophia=知)というわけです。I
哲学が生まれた古代ギリシャでは、まずターレスが万物には始原・本質があるとし、そしてヘラクレイトスは万物は変化するとし、パルメニデスは万物は不変であるとし、アナクサゴラスは思考が始原であるとし、デモクリトスは世界は原子でできているとしました。それらはどれもすばらしい独創的な思考であり、今に至るまで不倒の思考の大原則となっています。それに対しソクラテスはよき生き方こそが課題であるとしました。さらにピュタゴラスは数学に限りなく魅せられました。そしてそれらはプラトンやアリストテレスにおいて深化され綜合されます。
その後、残念ながらキリスト教が西洋の思想を宗教的視点で制圧してしまったため、これらの巨大な知の遺産はアラビア人たちによってひっそりと保持されていきます。ようやく14世紀に至り、ヴェネチアの東方交易や十字軍により古代人たちの叡智は再発見されます。
そして人間の学はようやく西洋において復活することになります。知は力なりとフランシス・ベーコンは言いましたが、本格的のろしはデカルトによってあげられました。「われ思うゆえにわれあり」、確実な思考はどのように基礎づけられるのかという問題意識への一つの回答です。大陸では、人には神から与えられた思考の形式があるとされ、英国では、いやそうではない、生まれてからの経験により脳みそは形づけられるのだとされました。
これらはどちらもありと思いますが、世は科学発展の時代であり、そこでは目をつぶってものを考えるのではなく、観察と実験によって成果があがりつつありました。こうしたもろもろのことに折り合いをつけようとしたのがかの偉大なるカントです。彼によって、私にとっても決定的に大事な次の見解がでます。「私はもの自体のことは判らない、私が見ているものは私の頭の中にでてきた像である。」という見解です。これ以降、世界について絶対に人間には証明できないような形而上的な屁理屈は葬りさられてしまいます。
してみると、私がいかにして世界と私を的確に理解できるかが、やっぱり決定的にだいじになってくるのではないでしょうか?これを批判的に継承したのがヘーゲルです。彼は世界のものごとは矛盾の止揚こそが発展の本質だとして『弁証法』を説きました。結局ドイツ観念論者たちはこのように観念論に帰着していしまいます。
カントがもの自体は判らないと思考省略したことを、ヘーゲルは弁証法で解き明かしましたが、それを批判して継承したのがマルクスです。ドイツではその後フッサールが現象学という新たな人間視点での見方を提起しましたし、英国ではホワイトヘッドやラッセル、ヴィトゲンシュタインらがものの論理構造を、論理学や言語論の点から批判していき、さらに戦後フランスで構造主義(人間社会は構造でしばられている)の考え方が出ました。
このように世界を認識するということについては、さまざまな考え方とその発展の歴史があります。私としてはやっぱりその大筋の考え方を学んで、そこからなるほどと思う見方を取り入れて自分なりの考え方(それもシンプルでお客さんにもすこんと分かってもらえるようなもの)を確立したいのです。
それで今、その弁証法とやらがほんまに世界を説明できるシンプルな思考ツールなのかを検討しているのです。それが終われば、ラッセルやヴィトゲンシュタインなどの考え方も検討せねばならないなと思っています。人間は言語でものを考えているのだから、言語の限界が思考の限界であるなんて、なんと魅力的考え方でしょう。ぼちぼち棺桶に入る用意をしなければならない時季に、こんなことにうつつを抜かしているとはこまったものです。
会計事務所と経営コンサルティングの融合
御堂筋税理士法人&組織デザイン研究所
小笠原 でした。