御堂筋税理士法人創業者ブログ

 わたしは専業ではないが、セミナーの講師もしている。お金をいただいているのでプロである。話すテーマは、ほぼ経営のことである。せっかく話をさせていただくのだから、聴いてよかったと皆さんに思っていただきたい。そのためによい話をしたい、それも上手に。

 というわけで、どのように話をすれば皆さんがうっとりしていただけるかなあと思って、自分なりに工夫する。さまで熱意もないので、専門的な訓練を受けるとまではいかないが。

 そこで本を読む。『弁論術』についての本である。西洋では、古代からの伝統で言葉と言葉で議論をし、相手を説得する能力は指導者の必須条件である。ところが日本では、同質社会ということもあり言葉による論議や説得といった文化的習慣は少ない。なにしろ事挙げしない国である。

 しかしわたしに限らず、世の経営者、リーダーにとって、言葉により人を動かしていくことは絶対に必要だし、一つの重要な能力である。

 30代の始め税理士試験に受かったころ、思い立って「カーネギーの話し方教室」というセミナーに通った。あの「人を動かす」の著者、デール・カーネギーである。2分間のスピーチで相手の心に響くお話をするのである。これは勉強になった。

 だんだん年齢が増して、社会的な立場も上がって来ると、大勢の人の前で話をする機会も増えて来る。ところがわたしは元来が自意識過剰気味で、なかなかうまく話せない。

 映画や本でヒーローたちが感動的な演説をするシーンに接するたびに、体がふるえほどに感動し、ああ自分もこんなふうに喋れたらなあと憧れたものだ。わたしの子供の頃だと、ケネディの大統領の就任演説やキング牧師のあの「私には夢がある」の演説など記憶に残る。またカエサルやアレクサンドロスが兵士たちに語りかける演説など、わたしが兵士であればこの男についていくと思ってしまうほど魂に突き刺さったものだ。

 名演説を求めてあれこれ本を渉猟した。一つは古代ギリシャの雄弁家の演説である。すばらしいなあと思ったのは、ペロポネソス戦争戦没者の国葬におけるペリクレスの演説である。デモステネスの弁論集も出されているし、それ以外にもイソクラテスなどアテネの十大弁論家といわれる人たちの弁舌はプルタルコスのモラリアにくわしい。それにしても録音技術のなかった時代、ツキュディデスなど歴史家はどのようにして彼らの演説を採録したのだろうか?恐るべき記録術と記憶力に感嘆せざるをえない。

 もちろん技術本も読んでみた。クィンティリアヌスの『弁論家の教育』やキケロの『弁論家について』などだ。だがプラトンもアリストテレスの本も含め、これらの話は正直言ってピンと来なかった。ようするに私は、西洋人のような教育を受けてもなく、そのような議論を受け入れる感受性も鈍いのだと自己認識している。

 さて、そんな私だが、数年前に読んでみてもっとも腑に落ちたのが、ハワード・ガードナーという人の『リーダーなら人の心を変えなさい』(邦題)である。その中に、話をするときに大事にすべき7つのRということが書いてあった。この話は2017年7月28日のブログ、「説得力」に書いたのでご興味があればご覧いただきたい。

 それを基に、わたしは自分が話をするときに心していることをまとめてみた。何かの参考になればと思い、披露しておこう。

1 なるほどなという話をする(合理的・論理的に正しい話である)

2 共感を持ち、共感をよぶ話をする(人間の変わらぬ真理・真実をあらわしている話である)

3 実例・事例のストーリーを語る(神話の法則、人は物語に聴き入るものだからである)

4 うまいたとえ話(ただしすべるリスクはあるが、はまるとすとんと入り、受ける)

5 ひらがなで話す(ソクラテスの教え、専門用語はいけません)

6 徐々に心理的距離を詰めていく(これはわが師 本山雅英に教わった)

7 深い話をする(かなりの部分、このために哲学書を多読する)

8 会場全体にくまなく目をやり、様子を観察する

9 特定の一人の人に目を合わせ、その人に語りかけるように話す(8,9にはコーチングの技術は役に立った)

10 ユーモアがあり、品を保つ(これはイギリス人を見て教わったが、元来が下品なわたしにはチャレンジだ)

 ところで話の内容以外に大事なこととして、声のトーンや声色がある。アテネの大弁論家イソクラテスは、「私に自信と美声を仕込んでくれる人には1万ムナを払うだろう」とまで言っている。元来が録音された自分の声を聴くのは拷問を受けるようにイヤなわたしである。しかし話をしているときはそのことはうっちゃっておける。

 理想は、オペラのバリトン歌手のように語ることである、イタリアのベルカントのように。だがわたしは、頭が前後に長い(長頭族という)ヨーロッパ人は、声を額で共鳴させて朗々とした声を出せるのだと密かに思っている。特に英語をしゃべる男たちは、英語の特性からかその感がより強い。なんであんなに声が響くのか不思議でもある。となりで喋られると自分の思考に集中できなくなるくらいである。

 残念ながらわれら東洋人は、短頭族でヨーロッパ人のような頭蓋構造にはなっていなくて、声が楽器のようには響かない。特に日本人は会話スタイルがぼそぼそとしていて余計そのように思う。それでもわたしはできるだけ胸を張った胸声で、声を前に出そうと努めている。これは一つのポイントだと思っている。

 だが経験的にもっとも大事だと思うのは、気分の安定である。気分が落ち着いているといい感じの声が出てかつ声がポジティブに前に出る。逆に気分が落ち込んでいるとそもそも声が出ない。わたしのような気分屋は殊にそうである。それゆえ日常生活においてよい気分でいられるように、人間関係がうまくできるように自己努力をしなければならないし、感情のコントロールをしなければならない。

 いかがだろうか?まだまだ完全にできてはいないのが、あらゆる機会にこれらのことを考えながら話をしていこうと努力はしているつもりだ。ご参考になればと思い駄弁をろうしたしだいである。

最後に、せっかくだからペリクレスの葬送演説の一部をご紹介しておきたい。

「かつてこの壇に立った弔辞者の多くは、この賛辞を霊前のしきたりとして定めた古人を称えている。戦いの野に生命を埋めた強者(つわもの)らには、賛辞こそふさわしい、と考えたためであろう。しかし思うに、行為によって勇者たりえた人々の名誉は、また行為によって顕示されれば十分ではないか。なればこそ今、諸君の目前で行なわれたように、この墓が国の手でしつらえられたのである。それに反して、多くの勇士らの勇徳が、わずか一人の弁者の言葉に巧拙によって褒貶(ほうへん)され、その言うなりに評価される危険は断じて排除すべきだと私は思う。なぜならば、真実の評価をなすべき基礎を欠く場合、公正な発言をおこなうことはきわめてむずかしい。事実を知り同情をもって耳を傾けるものは、おのれの心情や理解が弁者の言葉には汲みつくされていないと考えるであろう。逆に事実をわきまえず、しかもおのれの力量をもってしては成しがたい事績を聞いて嫉妬するものは、弁者の誇張を憤る場合も多々あるからだ。なぜなら、他者への賛辞は聞き手の自信を限界とし、その内にとどまれば素直に納受されるが、これを越えて賛辞を述べれば、聞き手の嫉妬と不信を買うにとどまる。しかしながら、戦没者への賛辞は古人がよしとした慣例ゆえ、私もしきたりを守り、諸君のできるだけ多くの人々の心情と理解を言葉につくすよう、つとめなけくてはならぬ。
  まず私は、わが祖先に賛辞をささげたい。今日この場にあって、祖先の思い出に最初の位をゆずるのはわれらの義務であり、この機にふさわしいからである。なぜならば、この土を、わが血脈の祖先らはいにしえよりつねに住み耕し、その自由を守る勇徳によって世々今日にいたるまで子らにゆずり渡してきた。そのゆえにわれらは遠き祖先に与うべき賛辞を惜しまない。だがそれにもまさる高い賛辞をわれらの父にささげねばならぬ。われらの父は古き領土に加えて、営々辛苦して今日の支配権を獲得し、これを今日のわれらに残していった。そしてここにいるわれら自身、今なお壮(さか)んな活動期にある者たちは、受けついだ支配をいや増しに押し広げ、わが国の備えをあらゆる面で充実させ、和戦のいずれを問わず、かつてなき完全な態勢を把握するにいたった。ここに到達するまでの戦いの過程は、われらや父たちがギリシアの内外から襲う敵勢を勇敢に撃退し、かの戦いにはこの地を、この戦いにはかの地をを得たという一々の手柄話に伝えられて、諸君にはすでに熟知のこと、ながながとこれをくり述べることは省きたい。
  しかしながら、われらがいかなる理想を追求して今日への道を歩んできたのか、いかなる政治を理想とし、いかなる人間を理想とすることによって今日のアテナイの大をなすことになったのか、これをまず私は明らかにして戦没将士にささげる賛辞の前置きとしたい。この理念を語ることは今この場にまことにふさわしく、また市民も他国の人々もこの場に集うものすべて、これに耳を傾けるものには益するところがあると信ずる。
  われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範に習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言がみとめられる。だが一個人が才能の秀でていることが世にわかれば、輪番制に立つ平等を排し世人のみとめるその人の能力に応じて、公の高い地位を授けられる。またたとえば貧窮に身を起そうとも、国に益をなす力をもつならば、貧しきゆえに道を閉ざされることはない。われわれはあくまでも自由に公につくす道をもち、また日々にたがいに猜疑の目を恐れることなく、自由な生活を享受している。そし隣人がおのれの楽しみを求めても、これを怒ったり、あるいは実害なしとはいえ不快を催すような冷視を浴びせることはない。私の生活においてわれらはたがいに掣肘を加えることはしない。だがこと公に関するときは、法を犯す振舞いに深く恥じ恐れる。時の政治をあずかるものに従い、法を敬い、とくに、侵されたものを救う掟と、万人に廉恥の心を呼びさます不文の掟とを、厚く尊ぶことを忘れない。・・・」

 また次の機会に、カエサルやアレクサンドロスの名演説をご紹介したい。もっと早く知りたい方は、わたしのまとめたワード文書がありますからお譲りします。ご連絡ください。

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